山藤章二の本。
この中に、興味深いところがあったので、紹介したいと思います。
以下引用。
私が生まれ育った家庭は、女房に言わせれば「異常なほど温かい家庭」だった。
一家5人の情愛まことに濃密、誰かひとりが咳をすれば家中が心配顔になって、やれ体温計だ龍角散だと大騒ぎした。
それも無理からぬはなしで、父親は35歳の若さで病死した。
昭和の始めのころは肺病は命取りである。
母は病院と家を往復しながら、結核菌が4人の子どもたちにうつらない様に、どれほど神経をすり減らした事だろう。
その気配は当然家族全員に伝わり、そろって健康に関しての心配性になった。
かくして一人が咳をすれば、家中が心配顔になるという特異な家風になったのである。
生まれてからずっとその中にいれば、わが家が特異が否かは判断できないものだ。
気づかされたのは、妻(当時は婚約者)の出現によってである。
ある日私は軽い風邪で会社を休んだ。
これも家風で、すこしでも体調が悪いと母親は学校を休め休めと言うのだ。
妻は会社に電話をかけ、休むくらいじゃ大変だろうと見舞いに来た。
すると横になっている私のかたわらで姉2人が、なにやかにやと世話をやいている。
妻は居る場所も無くすぐ帰っていった。
後日会った時、軽い風邪くらいで女2人があんなにかしずいている図は異常よ、とズバリと言った。あたしの家では考えられないわ。
妻の家はまた極端だった。
父親が腕のいい表具師で、何人かの弟子が家族同様に同居していて、毎日が戦場のような騒ぎ。
若い衆が刃物で怪我をしても、母親が焼酎を口に含んで霧状にして吹きかけておしまい、というような家風だった。
結婚は、家風と家風のコラボレーションである。
始めのうちはうまくいかなくても何の不思議もない。
それをなんとか平和裡にまとめ、「オリジナルブレンド家風」を創ってゆくのが夫婦の、息の長い大仕事だろう。
わが家も当初は混乱した。
二人の子どもは、世間とは違うわが家の家風に困惑したはずだ。
世間一般では‘男性的‘とされる「決断と行動」は母親から教えられ、‘女性的‘とされる「情緒と逡巡」は父親から教えられたからだ。
言うまでも無くこれは、私も妻も、それぞれが生まれ育った実家から引き継いだ家風である。
はっきり言って変則である。
しかし多分、どんな家風も、どこか変則的だろう。
その変則を‘わが家の個性‘として貫き通せたのが、昔の家、昔の親ではなかったか。
「よそはよそ、うちはうち」という言葉を、誰からとも無く、昔は良く聞いたものだ。
いま、これだけ自信に満ちた言葉を吐ける親がどれほどいるだろうか。
流行の言葉でいえば「トンデモ事件」が昨今多発している。
遊び半分の殺人。
一度経験してみたかったという理由の殺人。
保険金欲しさの親殺し。
折檻の果ての子殺し。
昔は無かったこの種の犯罪が激増している原因のひとつが、家族関係の希薄にあると思っている。
重大犯罪を犯そうとする瞬間、最後のブレーキになるのは親の顔や家族の顔が浮かんでくることだろう。
濃密な家族関係のもとに育てば、頭を振り払っても顔は消えない。
昨今のトンデモ状況を見るにつけ、ああこの犯人は家族愛に恵まれていなかったんだろうなと、まず思う。
家族とは、ふだんは大いにうっとうしいものである。
そりが合わぬものである。
天涯孤独だったらどんなに自由だろうと憧れること、人間誰しもあることだ。
しかし、人間としての道を踏み外しそうになった時、うっとうしくて面倒で、喧嘩ばかりしていた家族が、地球の引力のような目に見えぬ大きな力となって、大気圏外へ飛び出すのを防いでくれるのである。
地球の存在がしみじみ有難いと思うことは稀なように、家族についてもそう思うことは滅多にない。
われわれみな、凡人の愚である。
この中に、興味深いところがあったので、紹介したいと思います。
以下引用。
私が生まれ育った家庭は、女房に言わせれば「異常なほど温かい家庭」だった。
一家5人の情愛まことに濃密、誰かひとりが咳をすれば家中が心配顔になって、やれ体温計だ龍角散だと大騒ぎした。
それも無理からぬはなしで、父親は35歳の若さで病死した。
昭和の始めのころは肺病は命取りである。
母は病院と家を往復しながら、結核菌が4人の子どもたちにうつらない様に、どれほど神経をすり減らした事だろう。
その気配は当然家族全員に伝わり、そろって健康に関しての心配性になった。
かくして一人が咳をすれば、家中が心配顔になるという特異な家風になったのである。
生まれてからずっとその中にいれば、わが家が特異が否かは判断できないものだ。
気づかされたのは、妻(当時は婚約者)の出現によってである。
ある日私は軽い風邪で会社を休んだ。
これも家風で、すこしでも体調が悪いと母親は学校を休め休めと言うのだ。
妻は会社に電話をかけ、休むくらいじゃ大変だろうと見舞いに来た。
すると横になっている私のかたわらで姉2人が、なにやかにやと世話をやいている。
妻は居る場所も無くすぐ帰っていった。
後日会った時、軽い風邪くらいで女2人があんなにかしずいている図は異常よ、とズバリと言った。あたしの家では考えられないわ。
妻の家はまた極端だった。
父親が腕のいい表具師で、何人かの弟子が家族同様に同居していて、毎日が戦場のような騒ぎ。
若い衆が刃物で怪我をしても、母親が焼酎を口に含んで霧状にして吹きかけておしまい、というような家風だった。
結婚は、家風と家風のコラボレーションである。
始めのうちはうまくいかなくても何の不思議もない。
それをなんとか平和裡にまとめ、「オリジナルブレンド家風」を創ってゆくのが夫婦の、息の長い大仕事だろう。
わが家も当初は混乱した。
二人の子どもは、世間とは違うわが家の家風に困惑したはずだ。
世間一般では‘男性的‘とされる「決断と行動」は母親から教えられ、‘女性的‘とされる「情緒と逡巡」は父親から教えられたからだ。
言うまでも無くこれは、私も妻も、それぞれが生まれ育った実家から引き継いだ家風である。
はっきり言って変則である。
しかし多分、どんな家風も、どこか変則的だろう。
その変則を‘わが家の個性‘として貫き通せたのが、昔の家、昔の親ではなかったか。
「よそはよそ、うちはうち」という言葉を、誰からとも無く、昔は良く聞いたものだ。
いま、これだけ自信に満ちた言葉を吐ける親がどれほどいるだろうか。
流行の言葉でいえば「トンデモ事件」が昨今多発している。
遊び半分の殺人。
一度経験してみたかったという理由の殺人。
保険金欲しさの親殺し。
折檻の果ての子殺し。
昔は無かったこの種の犯罪が激増している原因のひとつが、家族関係の希薄にあると思っている。
重大犯罪を犯そうとする瞬間、最後のブレーキになるのは親の顔や家族の顔が浮かんでくることだろう。
濃密な家族関係のもとに育てば、頭を振り払っても顔は消えない。
昨今のトンデモ状況を見るにつけ、ああこの犯人は家族愛に恵まれていなかったんだろうなと、まず思う。
家族とは、ふだんは大いにうっとうしいものである。
そりが合わぬものである。
天涯孤独だったらどんなに自由だろうと憧れること、人間誰しもあることだ。
しかし、人間としての道を踏み外しそうになった時、うっとうしくて面倒で、喧嘩ばかりしていた家族が、地球の引力のような目に見えぬ大きな力となって、大気圏外へ飛び出すのを防いでくれるのである。
地球の存在がしみじみ有難いと思うことは稀なように、家族についてもそう思うことは滅多にない。
われわれみな、凡人の愚である。