議会における一般質問のあり方について検討する際、私たちは「議論」ということについてあまりに無理解であると思います。これまでの議会の一般質問を見ていて思うのは、私自身の反省も込めて要求・要望型の質問が大多数だということです。議員は「これこれをやって欲しい」と質問し、行政は「わかりました。やりましょう」と回答するか、または「お金がないのでできません」と回答するといった按配です。
そこには議論の深みも厚みもありません。そもそも「議論すべき議場」に議論がなく、単なる「お願い」ばかりといった状況があるのではないでしょうか。または行政からの回答などまったく無視して、自説を朗々と論ずるパフォーマンスに徹している方も見え隠れしています。本来あるべきなのは「あるべき東御市像」をめぐっての政策論争のはずです。
一括質問一括答弁がいいか一問一答がいいか、回数に制限を設けるかどうかなどということを論ずる前に、議論とは何か、論争とは何かということを突き詰めて考えることから始めなければならなかったのです。
そもそも私たち日本人は議論が下手です。自分の考えを順序だてて話すということが苦手です。ですから相手の論理の矛盾を突き、相手を論破するなどという経験をしたこともありません。畢竟、原稿の読み合いになります。しかも演技力不足で棒読み。そこには論破などすれば相手に恨みが残る、だからお互いになあなあで済ませ問い詰めたりしないほうがいいという談合体質があります。一般的には、質問するのは新人議員、ベテランになれば個別に解決し質問などしないという風潮のようです。しかしこれでは市民にはわかりません。
議論するためにはまず①相手の論理をきちんと捕らえること、②その論理の矛盾や問題点を明らかにすること、③その解決のためには自分の議論の方が適切であることを述べることが必要です。すなわち議論で目指すのは誤解を恐れず言えば「相手をぎゃふんと言わせ、俺の言うことを聞けということ」です。決してお願いしてやってもらうというのではありません。
いま国会で予算委員会で論戦を行っていますが、質問者は実に雄弁で議論慣れしています。議論の訓練を受けていると感じます。私たち自身の議論の質を高める努力が必要だと思います。
そこには議論の深みも厚みもありません。そもそも「議論すべき議場」に議論がなく、単なる「お願い」ばかりといった状況があるのではないでしょうか。または行政からの回答などまったく無視して、自説を朗々と論ずるパフォーマンスに徹している方も見え隠れしています。本来あるべきなのは「あるべき東御市像」をめぐっての政策論争のはずです。
一括質問一括答弁がいいか一問一答がいいか、回数に制限を設けるかどうかなどということを論ずる前に、議論とは何か、論争とは何かということを突き詰めて考えることから始めなければならなかったのです。
そもそも私たち日本人は議論が下手です。自分の考えを順序だてて話すということが苦手です。ですから相手の論理の矛盾を突き、相手を論破するなどという経験をしたこともありません。畢竟、原稿の読み合いになります。しかも演技力不足で棒読み。そこには論破などすれば相手に恨みが残る、だからお互いになあなあで済ませ問い詰めたりしないほうがいいという談合体質があります。一般的には、質問するのは新人議員、ベテランになれば個別に解決し質問などしないという風潮のようです。しかしこれでは市民にはわかりません。
議論するためにはまず①相手の論理をきちんと捕らえること、②その論理の矛盾や問題点を明らかにすること、③その解決のためには自分の議論の方が適切であることを述べることが必要です。すなわち議論で目指すのは誤解を恐れず言えば「相手をぎゃふんと言わせ、俺の言うことを聞けということ」です。決してお願いしてやってもらうというのではありません。
いま国会で予算委員会で論戦を行っていますが、質問者は実に雄弁で議論慣れしています。議論の訓練を受けていると感じます。私たち自身の議論の質を高める努力が必要だと思います。