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2月16日・17日の視察の中で東京市ヶ谷の防衛省を訪れたことはすでに書きました。その中でとても興味深かったのが「市ヶ谷記念館」(旧1号館)の見学でした。
いただいてきたパンフレットによれば、防衛省のある「市ヶ谷台」は、江戸初期に徳川御三家の一つである尾張徳川家の上屋敷でした。「1号館」は昭和12年に陸軍士官学校本部として建設されました。その後、昭和16年には大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部となり、昭和20年には極東軍事裁判の法廷として使用されることになりました。昭和35年からは陸上自衛隊東部方面総監部、自衛隊幹部学校となり、平成12年には防衛省となりました。
幾多の変遷を経てきた「1号館」はその一部が移転され、「市ヶ谷記念館」として当時そのままに保存されました。ここであの極東国際軍事裁判(東京軍事裁判)が行われたと思うと厳粛な気持ちになりました。昔の写真ではもっと広い体育館のような場所なのかなと思っていたので意外でした。ここはあの三島由紀夫の割腹自殺の舞台にもなりました。
三島由紀夫が陸上自衛隊東部方面総監部を楯の会メンバー4名とともに訪れ、人質を取り籠城・自決したのは昭和45年11月25日のことです。総監室は戦時中大本営陸軍大臣室であったところです。このバルコニーから三島は自衛官達に決起を促す演説を行ったのです。部屋のドアにはその時の刀傷が3ヶ所残されていました。
当時私は学生でした。ちょうどラーメン屋さんで食事をしている時、テレビの臨時ニュースで割腹自殺が報じられました。三島由紀夫は人気作家だったので反響は大きなものでした。もう40年も前のことですが当時のことは鮮明に記憶しています。
そんな歴史の舞台に立ったのだと思うと何か不思議な感じがしました。