佐倉・雷電祭に参加しました

2011-02-11 23:34:09 | 雑感
2月11日、千葉県佐倉市で江戸時代最強力士、雷電為右衛門の186回忌の法要と佐倉太鼓による奉納があり参加させていただきました。

雷電為右衛門(らいでん・ためえもん)をご存知でしょうか。いま国技館では八百長問題に揺れていますが、雷電は信州・大石村(現東御市大石)出身の江戸時代の力士です。雷電は21年間34場所の力士生活の中で、254勝10敗、引き分け・預かり・無勝負21、勝率96.2%の驚異的な実績を残しています。そのため東京深川・富岡八幡宮にある「横綱力士碑」の中に、別格として「無類力士」として顕彰されています。

2月11日はそんな雷電の命日にあたります。佐倉・雷電顕彰会では毎年この日に雷電祭と称して命日の法要と雷電太鼓の奉納を実施しており今年で34回を数えます。そんな法要に10年ほど前から東御市からも参加し、雷電をこよなく愛する両市の住民で交流を深めてきています。

もともと佐倉市は雷電の妻「おはん」の出身地であり、雷電が晩年を過ごした地でもあります。ちなみに雷電の墓所はここ佐倉市妙覚寺、東京赤坂報土寺、松江市西光寺、そして出身地の東御市大石地区にあります。

この法要には私も以前から参加したいと思っており今回実現しました。朝6時に集合し市のバスで一路佐倉市に向かいました。参加者は30名弱、市長さんや取材で参加したFMとうみのパーソナリティの大村さん、道の駅「雷電くるみの里」の唐沢駅長、そして地元大石の方を中心とした住民の皆さんです。

途中からみぞれまじりの雪が降りはじめ、都心経由で佐倉市・妙覚寺に到着したのは9時半。10時からご住職による法要、そしてお焼香、さらに佐倉太鼓の奉納がありました。その後直会(なおらい)となり交流を深めました。帰途は国技館の隣の相撲博物館と柴又に寄り、雪の中夜7時過ぎに東御市に戻ってきました。

なにはともあれ雷電の186回忌が盛大に行なわれたことは驚きでした。雷電は亡くなってからも多くの人々に愛されてきたことがうかがわれます。そして雷電を通じて出身地の東御市の住民と、晩年を過ごされた佐倉市の住民がこうして住民レベルで毎年交流を深めていることは素晴らしいことです。こうした住民レベルの交流はあまり例がないのではないでしょうか。両市の交流がますます盛んになることを願っています。充実した一日となりました。

ところで私は自分の名刺の裏に雷電を紹介する文章を載せています。そこでは雷電の命日を「4月9日」としています。今回はじめて気がついたのですが、雷電の命日は旧暦の「2月11日」、新暦では「4月9日」になるんですね。とすると雷電が亡くなった日は今回のような雪の降る寒い日ではなく春爛漫の中だったんですね。


佐倉市妙覚寺の雷電顕彰碑。「天下第一流、力士雷電之碑」の文字と雷電の姿が刻まれています。


雪の中、佐倉太鼓の勇壮な演奏を聞きました。寒い中ご苦労様でした。


妙覚寺の本堂で、地元の佐倉・雷電顕彰会の皆さんと東御市から参加した皆さんで交流を深めました。

北方領土県民大会に出席しました

2011-02-11 05:02:26 | 議会活動


10日は午後から佐久市で北方領土返還要求県民大会が開かれました。県の市議会議長会も主催団体に加わっているとのことで動員要請があり新人議員中心に参加したものです。主催者を代表して寺島県議会議長が挨拶。その後大会宣言や返還要求の標語の表彰式があり、引き続き高校生による北方領土訪問報告がありました。

その後元外務省に勤務していた方から、北方領土に関する歴史的経過についてのお話しがありました。私たちも北方領土のことは聞いたことがあっても、その歴史的経過について聞くことはほとんどありません。とてもよくわかりました。かいつまんでご紹介させていただきます。



1、左上 1855年、日露通商友好条約で日本とロシアの国境は択捉島とウルップ島の間に決められ、樺太は両国民の混住の地として定められました。
2、右上 1875年、日本は千島列島をロシアから譲り受けるかわりに樺太全島を放棄しました。
3、左下 1905年、日露戦争の結果日本とロシアはポーツマス条約を締結。北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。
4、右下 1951年、日本はサンフランシスコ平和条約で千島列島と南樺太の権利を放棄しました。しかし放棄した千島列島には択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島は含まれていません。しかも放棄した地域が最終的にどこに帰属するかも定められてはいません。

第二次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦。戦争が終わった8月18日から千島列島への攻撃を開始しウルップ島まで侵攻。択捉島以南に米軍がいないことがわかると9月5日までに北方4島を占領し、これまで不法に占拠しています。

終戦時のソ連のふるまいはまさに火事場泥棒的でした。あのシベリア抑留とそれに引き続く強制労働は何の国際法の根拠もなく不当なものです。シベリアに抑留された旧日本軍は60万人、シベリアの地で命を落とされた方は6万人とも言われています。

国際法上捕虜への虐待は禁止されています。ポツダム宣言でも兵士は家庭に返すことが明記されています。しかしソ連は酷寒の地シベリアにおいて満足な食料や生活環境も保証することなく、鉄道の建設や森林伐採などに使役し、その結果多くの若い命が奪われました。

北方領土については歴史的経過からもロシアの占拠は不当なものであり、その返還を求めるのは至極当然のことです。この問題をもっと多くの方々に知っていただき解決のために力をあわせて行きたいと思います。

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