数年前より地元岡山では
山田方谷の業績をNHKの大河ドラマにとの
声が盛んに上がっている
ドラマの実現はともかく岡山県民に現代の日本人に
備中松山藩の窮地を救った偉人について
知らしめることは良いことかと思う
そんなこんなで 今更ながら
おいらも山田方谷について学ぼうと
野島透著「山田方谷の夢」を読んだ
窮地の藩財政を立て直す功績を遂げた人物
については「上杉鷹山」が有名で著作も
多い おいらも童門冬二の小説を読んだことがある
「山田方谷の夢」を
興味深く面白く読んでいると
先日北房町 中津井陣屋で開催された花嫁行列に関わる
記述が目に止まった
1839年方谷のもとに備前 児島で塩田開発をしている
野崎武左衛門(のちの塩田王)が訪ねてきて
息子の嫁について相談された
方谷は 「私の実家近くの呰部(真庭市北房町)に
庄家という名門の家があります。その庄家の長女に
多計という美人で気立ての良い娘がいる・・・」云々
この輿入れが花嫁行列の始まりなのである
庄家とは永禄年間?備中松山城を明け渡し帰農した
人物の子孫なのだ
地元だけにものを調べて行くと面白い偶然にでくわすものだ
余談だか
数年前よりおいらの調べているのは
我が家の地所である福山安田坊(畑)側に有る墓の主の事
穂井田為資こと庄 為資 出家し名を改めた聖坊入道穂井田為繁
元備中松山城主に成った男のことだ
花嫁行列の際の長持に掛かっていた布の家紋をみると
我が家の家紋と同じだった