前回(10日付)のこのブログで、金沢の兼六園を今年訪れたインバウンド観光客数が11月末時点で44万6千人となり、去年1年間の42万8500人を超えて過去最多を更新したと地元メディアの記事(12月6日付・北國新聞)を紹介した。すると、このブログをチェックしてくれた知り合いからメールで「ところで、兼六園ではインバウンド客の人数をどのようにカウントしているのでしょうか? よもや入場券売り場の人の目視ではないですよね」と鋭い指摘をいただいた。確かに、記事にはどのような調査方法なのか触れられていなかったので、兼六園の管理事務所に電話で外国人の入場者のカウント方法について問い合わせた。
スタッフが丁寧に答えてくれた。以下はその要旨。兼六園には7つの入り口(料金所)がある。料金を受け取ると入場券とパンフを渡している。パンフは9ヵ国語(日本、英語、中国、台湾、韓国、フランス、イタリア、スペイン、タイ)で、それぞれのパンフがある。入場者にパンフを渡す際、必ず国名と人数を尋ねて渡している。団体、個人問わず、そのようにしてパンフを渡しているので正確な国・地域別の人数が出せるのだという。
ところで、訪日観光客数は日本政府観光局(JNTO)の調べによると、中国742万人、韓国697万人、台湾454万人、香港215万人、タイ106万人と続く(2018年確定値)。もう一度記事を引用すると、ことし1月‐11月で兼六園を訪れた国・地域別では台湾が15万2千人と一番多く、次いで中国4万人、香港3万5千人、アメリカ2万9千人、イタリア2万人、オーストラリア1万9千人と続く。つまり、台湾からの訪日観光客が圧倒的に多い。これは北陸新幹線開業以前からの傾向で、台湾ではある意味で金沢の知名度が抜群なのだ。
八田與一(はった・よいち、1886-1942)という人物がいた。台湾の日本統治時代、台南市に烏山頭(うさんとう)ダムが建設され、不毛の大地とされた原野を穀倉地帯に変えたとして、台湾の人たちに日本の功績として高く評価されている。このダム建設のリーダーが、金沢生まれの土木技師、八田與一だった。ダム建設後、八田は軍の命令でフィリピンの綿花栽培の灌漑施設の調査ため船で向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃で船が沈没し亡くなった。1942年(昭和17年)5月8日だった。終戦直後、八田の妻は烏山頭ダムの放水口に身投げし後追い自殺したことは台湾でも金沢でもよく知られた逸話だ。
八田與一伝説が生きる台湾から、多くの観光客が「八田のふるさと金沢」を訪ねてくれている。(※2017年5月、八田與一の座像修復式には金沢市の関係者も訪れた=台湾・台南市役所ホームページより)
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