茨木のり子の詩『ある一行』は次のように始まります。
一九五〇年代
しきりに耳にし 目にし 身に沁みた ある一行
〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉
魯迅が引用して有名になった
ハンガリーの詩人の一行
絶望といい希望といってもたかが知れている
うつろなることでは二つともに同じ
そんなものに足をとられず
淡々と生きて行け!
というふうに受けとって暗記したのだった
―後段略―
(『倚りかからず』 ちくま文庫)
ウクライナの廃墟となった街のどこかで、若い女性が廃棄されたタイヤに土を盛って、チューリップを植えているニュース映像がありました。首都付近からロシア軍が撤退したあと、静寂を取り戻した様子を映したものです。
その女性にマイクを向けたジャーナリストは、平和の讃歌と復興への希望を期待していたのでしょう。ニュースを見る者も当然そう思います。
ところがその女性は、戸惑ったような表情で、ようやくこう語るのでした。
「母親も殺されてしまって、こうしている以外に、どうすることができるの」
前掲詩のなかのハンガリーの詩人の一行を、茨木の詩の文脈とは関係なく、そのとき思い出しました。
〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉
チューリップを植える女性は、希望に目を輝かせてはいませんでしたが、しかし絶望に沈んでいるのでもありませんでした。「希望」といい「絶望」というそれらが虚妄に過ぎないことを、一か月におよぶ激しい戦闘にさらされて、思い知らされたのかもしれません。
茨木のり子が生きていれば、どんな詩を書いたことだろうと思いました。
チューリップを植える女性に向けた詩ならば、優しく胸を熱くするものだったろうし、自分に向けられたものならば『ある一行』よりも、もっと厳しいものだったに違いありません。