お茶の稽古の床の間に、淡いピンク色の牡丹が活けてありました。
花の王と呼ばれるほどに、堂々とした佇まいですが、花のまわりの空気がかすかに、ふるえているようにも感じます。
古い和歌に詠まれることが少ないのもまた不思議な花です。
茶花として重んじられる「水仙」の古歌がないのは、わが国に到来するのが平安末期と比較的新しく、大和言葉で呼ばれることがなかったためでした。これに対して牡丹の花は『枕草子』にも姿を現しており、水仙よりも少し古い歴史があって「深見草」や「二十日草」といった大和言葉で呼ばれています。
大和言葉で詠まれた数少ない牡丹の歌には、次のようなものがあります。
人知れず思ふ心は深見草 花咲きてこそ色にいでけれ
(賀茂重保 『千載和歌集』)
形見とてみれば嘆きのふかみ草 何なかなかのにほひなるらむ
(藤原重家『新古今和歌集』)
いずれも「思ふ心」や「嘆き」が「深まる」意を掛けるものであって、あの堂々とした花の様子を詠んだものではありません。ふるえるような薄い花弁の重なりは、割り切れないこころの揺れを思い起こさせたのかもしれません。この花が正面から詠まれることが少なかったのも、そのあたりに理由があるように思います。
私にとって牡丹の歌といえば、近代に詠まれた次の一首に尽きます。
牡丹花は咲き定まりて静かなり はなの占めたる位置の確かさ
(木下利玄『一路』)
咲き定まって、これ以上の咲きようがあろうか、と誇らしげに問うているような風情です。しかしながら、その花の占める位置はあまりにも確かで、この世ならぬ世界に通じているかのように感じさせます。古歌に詠まれたものとはまた違う「深さ」を、この歌は詠んでいるように思います。