茨木のり子の詩の中で、もっとも感銘を受けたもののひとつが「みずうみ」(『茨木のり子集言の葉3』ちくま文庫所収)です。
その一部を抜粋します。
人間は誰でも心の底に
しいんと静かな湖を持つべきなのだ
田沢湖のように深く青い湖を
かくし持っているひとは
話すとわかる 二言 三言で
それこそ しいんと落ちついて
容易に増えも減りもしない自分の湖
さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖
教養や学歴とはなんの関係もないらしい
人間の魅力とは
たぶんその湖のあたりから
発する霧だ
自分にとっての湖とは、あるいは尊敬するひとの魅力のような湖の霧とはなんだろう、そう考えさせる美しい詩です。
しかし「田沢湖」という固有名詞や「魔の湖」という言葉がとても気になります。そこで、田沢湖について調べるうちに、次のような昔話に出会いました。
田沢湖のほとりにある大沢集落の祠に翁の面が納められていました。月が出て霧がこめる頃、二、三の魍魎があらわれるや、翁の面が魍魎にはりついて、宙に浮いて舞い始めます。唄が始まると舞は活発になり、月が落ちる頃に魍魎の姿は消えるのです。毎夜続く怪異現象を恐れて外に出る者もなくなったので、村の肝煎りが話し合った結果、大きい石に穴を開けて、面を中に入れ石ふたをしてしまいました。そうすると魍魎も出現しなくなった、ということです。(『翁岱の面箱石 秋田の昔話、伝説、世間話』参照)
詩の中で、湖の霧は「しいんと落ち着いた」人の魅力を表しています。しかしそれは、誰も降りて行けないような「魔の湖」から立ち上るものに他なりません。魔の湖は、魍魎を呼び寄せる磁力をも秘めているのです。
昔話のなかでは、面を封じることで魍魎は消え去りましたが、新たな「面」が現れれば、おそらく魍魎は面に引き寄せられて舞い始めることでしょう。
「魍魎」は人の哀しみ、「面」はその哀しみを誘う誰かの面影、ではないでしょうか。そう考えてくると、人間の魅力に喩えられる「湖の霧」とは、哀しみに引き寄せられると同時に、その哀しみを封印しようとするような、引き裂かれる思いではないかと思うのです。
茨木のり子が、この昔話を踏まえたのかどうかはわかりません。しかし「しいんと静かな湖」という言葉の響きは、この昔話を通して見ることで、深みを帯びるように思います。
(写真はhttps://shigenoyuta.com/lake_tazawa/を借用しました)