犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

お茶をどうぞ

2024-10-25 23:10:35 | 日記

一碗のお茶を客に差し出すとき、ただひたすらにお茶をふるまうことの難しさを感じることがあります。点前の所作がある程度身体にしみこんでくると、所作に気を取られない分、点前の様子がどう映ったのかなど相手のことが気になって、かえって邪念が頭をもたげてくるのです。

そんなとき、茶室の床の間に掛けられる「喫茶去(きっさこ)」の文字を思い起こすようにしています。「お茶をどうぞ」という意味の言葉です。私が初めて大きなお茶会で点前を務めたときに掛けられていたもので、そのときに素晴らしい笑顔で接してくださった正客の姿と一緒に思い出します。

これは唐代の禅師の語録で、次のような注釈が付けられています。
禅師が来山した修行僧の一人に「あなたはかつてここに来たことがありますか」と尋ね、僧が「ありません」と答えると「喫茶去(お茶をどうぞ)」とお茶を勧めました。禅師はもう一人の僧に同じことを尋ねると、今度は「来たことがあります」と答えましたが、その僧にも禅師は「喫茶去」とお茶を勧めました。

そばにいた院主が「初めて来た人にお茶を勧め、以前来たことがある人にも同じ様にお茶を勧めたのはなぜですか」と尋ねたところ、禅師は突然「院主さん」と呼びかけます。思わず「はい」と答えた院主に、やはり禅師は「喫茶去」とお茶を勧めたということです。

この話の眼目は、禅師が突然「院主さん」と呼び、思わず院主が「はい」と答えたことでしょう。院主は思弁の世界から呼び戻されて、ひとりの人間として禅師の前に立っている自分に気づきます。目の前にいる禅師もまた呼びかけたひとりの人間です。ふいに呼びかけられて、それに応えるなどということがなければ、素のままの人間同士として向き合うことは、こんなにも難しいことなのです。

以前にも紹介したことですが、鷲田清一は著書『じぶん・この不思議な存在』のなかで、人のために「なにかをしてあげる」という意識に絡めとられることの貧しさを語っています。
あるひとのためになにかを「してあげる」という意識のなかでは、自分と他者とは「施すひと」「施されるひと」とに転位され、それぞれが取り替えのきかない個別性を失って、匿名化してしまいます。「お茶をどうぞ」の一言は、そのような匿名化される前の自分と他者の関係に、一気に引き戻してくれます。

11月からは炉の稽古が始まります。炉をはさんで客に向き合う姿勢でお茶をふるまうとき、「喫茶去」の気持ちに立ち返りたいと思います。


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