歌人の穂村弘さんは、言語表現を支える二つの要素として「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」を挙げます。
多くの読者が好む「泣ける本」の類は、穂村さんによれば「共感」優位の読み物であり、言葉の中に「驚異」をはじめから求めていないのです。逆に、詩歌が敬遠されるのは「共感」よりも「驚異」との親和性が高いからだと言えます。
「共感」にもたれかかる表現を選択することは、つまりは驚異など「なかったことにする」ことに等しく、そのような「なかったことにする」生き方を知らないうちに選びとっているのだ、というのが穂村さんの意見です。軽妙洒脱なエッセイの書き手である穂村さんが舌鋒鋭い批判者に変わるのは、まさにこのような態度に対してです。
スポーツの選手が遺影を抱えて入場してきたことを何度も強調するアナウンサーがいる。その選手のプレイ自体が生み出す「驚異」が信じられず、外部の物語による「共感」を付与しないと視聴者は感動できないと思っているのだ。先日の高校サッカー中継では、監督の名前が画面に出るたびにその下に「去年の十一月に心臓の大手術」の文字が表示されていた。テレビ的に最も価値ある情報が「それ」なのだろう。スポーツを一種のドラマに、つまり「驚異」を「共感」に変換したいのだ。(『整形前夜』 講談社文庫)
詩的な言語感覚は「次の瞬間に全く無根拠な死に見舞われる可能性」に対する態度と分かち難く繋がっている、と穂村さんは指摘します。我々が生き延びるために身にまとっている社会常識やものの見方にとって本質的に意外なものは、物語に回収されないような「死」です。そして詩歌においては、言葉どうしが死と生の絶対的な亀裂をきらめかせながら、両者が予定調和に陥ることなく響き合っています。
「一見無関係な言葉同士が別次元で響き合う」という詩的原理の根底には、我々の日常の生そのものが死という絶対的意外性を内包している、という命のメカニズムがあるのだろう。そのことの感受なしに、死を単なる質草として命の掛け替えなさを「表現」することはむしろ冒瀆ではないのか。生と死を描いて感動的とされる大作映画やベストセラー小説が、ときに「ふざけている」ように感じられる理由はそれだと思う。(前掲書)
「死を質草にする」という表現も苛烈ですが、歌人にとって「泣いてください」と言わんばかりの表現は、言葉の可能性を積極的に放棄する許し難い行為なのだと思います。「共感」にもたれかかる弛緩しきった世界を賦活するはずの「驚異」が、「共感」の道具立てになってしまっていることに、歌人は耐えられないのでしょう。
端的に「驚異(ワンダー)」について、数々の美しい文章を残した人として、海洋生物学者のレイチェル・カーソンを思い出します。とりわけ彼女の著書『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)がそれです。彼女は幼い甥っ子のロジャーと一緒に海辺や森を散策し、星空や夜の海を眺めた経験をもとに本書を綴ました。彼女はこう記しています。
見すごしていた美しさに目をひらくひとつの方法は、自分自身に問いかけてみることです。
「もしこれが、いままでに一度も見たことがなかったものだとしたら? もし、これを二度とふたたび見ることができないとしたら?」と。(前傾書 28頁)
著者がガンとの闘いのなかで、最後の仕事として書き上げた本書の中には、彼女自身の死への自覚によって照らし出されるような輝きが満ちています。しかし、この本のなかで彼女は、ことさらに自分の病気について触れるようなことをしてはいません。