数々の秋草の登場につい忘れてしまいますが、夏の終わりをあれほど賑わせていた彼岸花が、いつのまにか姿を消しています。
花の時期が終わって花茎が無くなると、彼岸花は細い線形の葉を放射状に伸ばし、その葉の緑を保ったまま冬を越します。そして他の植物が葉を繁らせはじめる初夏に葉を枯らせるのです。「曼珠沙華」という別名は、サンスクリット語の「葉に先立って赤い花を咲かせる」という言葉から名付けられたそうなので、花の色かたちよりも成長の順序の特異さに注目されたのが、その特異な名の発端と言えるかもしれません。
ひとり我が道をゆくという風情のこの花を、歌人笹井宏之は次のように詠んでいます。
群るることああ忘れたというような目をひらきおり我が曼珠沙華
(『八月のフルート奏者』)
群れること、人と競い合うことは、考えてみると何かの必要があってそうしているわけではありません。ひとを押しのけて前に出ようとして、自分が急いでいるわけでもないことに気付いたりするのは、よくあることです。私たちは知らないうちに「機械的に自動的にできあがる」世界のなかに生きています。
群れることを「ああ忘れた」とでも言っているような曼珠沙華の姿は、そんな習慣の力から自由になった生き方を表しているようです。
習慣の力から自由になること、とりわけ感情という習慣の力から自由になることを、渡仲幸利は精神の働きをとりもどすことであると述べました。その著書『観の目ーベルクソン『物質と記憶』をめぐるエッセイ』(岩波書店)のなかで、感情に身をまかせることについて、次のように語ります。
ぼくたちは、怒りによって、鼓動を強めたり、こぶしを握り締めて震わせたり、声を裏返させたりしているのではない。こういう機械的な反応に陥った状態を解釈して、怒りと呼んでいるのである。悲しみのあまり、心拍が衰えて、全身の力を失うのでも、喜びのあまり、心拍が盛んになり、全身に力がみなぎるのでもない。こういう身体の状態を解釈したものが、悲しみであり、喜びなのである。感情に身をまかすことは、じつのところ、少しもこころ豊かなふるまいではない。物質の状態あるいは機械の状態に身を落として、こころがお留守になった状態なのである。その意味で、身についた習慣や、脳に沁みついた論理に身をまかせることも、同時に、思考がお留守になった状態なのである。(132頁)
あまりにも単純な話に、拍子抜けさえするのですが、私たちは、怒りや悲しみや喜びの感情がまずあって、それらに身を任せることは、こころ豊かなことだととらえがちです。しかし、それは物事のとらえ方もその順序も取り違えているに過ぎません。感情に身をまかせることは、ある身体の状態を切り取って、怒りや悲しみなどと名付け、そこで各々勝手に習慣づけているふるまいに身を任せることにほかならないのです。渡仲はそれを「こころがお留守になった」状態だと言います。
笹井宏之の歌の「ああ忘れた」という、どこかとぼけたような響きにも、底知れぬ怜悧さが隠されていることを、思わないわけにはいきません。
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