埼玉県内になぜ練馬区が…上下水道は新座市、マンホールは東京
2022/04/04 06:49
何げなく練馬区の地図を眺めていたら、お隣の埼玉県新座市に少し入ったところに「練馬区西大泉町」という地名を見つけた。いわゆる「飛び地」だ。広さはわずか約2000平方メートルでサッカーコートの半分弱ほどしかない。なぜこんな所に練馬区の一部があるのだろう。(高田悠介)
西武池袋線・大泉学園駅から15分ほどバスに揺られると新座市内に入る。「片山二丁目バス停」で下車し、数分歩くと西大泉町だ。周囲は新座市だが、住宅街のこの一角だけ、民家の表札や自家用車のナンバー、路上の消火器に「練馬」の表示が記されている。
区総務課によると、この地区には2月現在、12世帯30人が暮らす。ごみ収集は練馬区が担当。敷地が練馬区と新座市にまたがる住宅もあり、固定資産税は面積に応じて東京都と新座市が課税する。上下水道は新座市が管理するが、路上のマンホールの蓋には東京都のイチョウのデザインが刻まれている。
数十年来、ここに暮らす女性は「水道は新座市、ごみ捨ては練馬区と行政サービスはバラバラだけど、住んでいて不便を感じたことはないですよ」と笑う。
この地区が練馬区だと区が把握したのは比較的最近のこと。1974年6月、田畑だったこの土地に住宅を建てようとした業者が、練馬区に宅地開発の許可申請をしたのがきっかけだ。東京法務局練馬出張所で戦前の国の土地台帳を閲覧したところ、確かにこの土地には当時から、後に西大泉町となる地名「小作」がついていたことがわかる。
国の記録と区の認識が食い違ったのはなぜか。練馬古文書研究会の寒河江耕作さん(42)によると、江戸時代、西大泉町を含む一帯には、小榑こぐれ村という集落があり、一部は米津よねきつ氏という大名が支配していた。寒河江さんは「米津藩は周辺の村々にも飛び地の領地を持っていた。明治以降、市町村の合併・編入が繰り返されるうちに忘れ去られたのかもしれない」とみる。
小榑村は1889年(明治22年)、隣接の村と合併し、埼玉県の一部となった。しかし2年後には「大泉村」となり、こんどは東京府に編入された。旧小榑村の飛び地も同様に東京府となり、埼玉県内に取り残された。
区画整理を経て、ほとんどの飛び地は埼玉県に編入されるなどして解消されたが、いまの西大泉町の土地だけ残ったらしい。その理由を寒河江さんは「この一角はずっと田畑で人が住まず、区画整理の対象とならなかったからだろう」と推測する。
西大泉町の存在を知った区はすぐに解決に乗りだす。区議会や新座市と協議し、西大泉町を新座市に編入する方針を決定。住民たちに通知した。
しかし、住民側は「住民の意思を無視している」と編入撤回を求める陳情を区議会に提出。区議会は「住民の意思は十分わかるが、新座市に編入されるべきだ」と不採択としながらも、「住民の意向を尊重して、できるだけ配慮するよう要望する」と区側に注文した。その後、編入に向けた住民側との調整は進まず、現在に至る。
都心への交通の便が良い大泉学園駅の周辺は、自然豊かで閑静な住宅街が広がる一方、最近は駅前の再開発も進んで人気が高まっている。西大泉町を歩くと、「いまさら住所を変えろと言われても抵抗がある」と話す住民に出会った。住民が暮らしやすい環境であることが何より大切だろう。