1ヶ月ほど前だったか、ラジオの番組で樹木希林さんの本が話題になっていた。私は樹木希林のファンだったので、「だった」ではないか、亡くなった今でもファンだ。ということで、ラジオから聞こえる樹木希林という言葉に耳が反応したのである。
見た目が美しいというのでは無い、存在そのものが美しいと私は感じていた。私が子供の頃テレビドラマに出ていた樹木希林さん(当時は悠木千帆という芸名)は、その頃からオバサン役だった。その後、樹木希林となってからもオバサン役で、婆さん役もやっていた。だから、当時の私にとっては彼女は恋の相手ではなかった。女としての魅力はちっとも感じていなかった。であるが、私も老いて、色恋とは違う魅力を感じるようになってから樹木希林の魅力に引かれていった。「関わりたい人、一緒にいたい人」であった。
ラジオで話題になっていた本は2冊あって、その中の1冊は希林さんの残した言葉を集めたものらしい(ラジオから聞こえてくる情報なので正確なことは不詳)。数ある言葉の中で、「死ぬときくらい好きにさせてよ」という言葉が私の耳に残った。
「生きている間は好きに生きてこれなかったのだから」ということなのか、「神に定められた死期が来たんだから邪魔しないでね」ということなのか、「一人静かに、山奥深い場所で誰に知られることなく」なのか、「自宅の畳の上で、夫や子供孫たちに見守れながら」なのか、どっちだ?と「死ぬときくらい好きに」をあれこれ考えてしまった。
その数日後、川崎市での刃物男による殺傷事件が起きた。「どうせ自殺するんだったら他人に迷惑かけることなく、静かにひっそり死んだらいいのに」と思った。ネットを見ると、世間でもあれこれ意見があるようだが、私と同じような意見が多いように感じた。でも、何故、彼は一人で静かに死ねなかったのか、も考える必要があろうとも感じた。
ところが、「考える必要があろうとも感じ」てから翌日にはそのことを忘れる。社会とあまり関わらない生活をしているせいで脳の衰えが進んでいるのか、あれこれいろんなことを忘れる。最近、曜日を間違えるし、買い物なんか、買うのを忘れることはよくあり、同じ日、2件の店で買い物をして、同じものをそれぞれの店で買ってしまうなんてこともある。先日、ブログの相互読者である「くりまんじゅう」さんのブログに樹木希林さんの本のことがあって、希林さんの残した「好きに死なせて」を私はやっと思い出した。
川崎市での刃物男は引き籠りだったようである。社会に出ないで家に籠って何を考えていたんだろう。引き籠りとまでは言えないだろうが、私も家にいる時間は長い。家にいて腰の痛みが強い時はやはり気が滅入る。気は滅入るけどそれで「死にたい」とか思ったりはしない。譬え「死にたい」と思っても、「ついでに他人を巻き添えに」などとはちっとも思わない。自分で自分を殺すことさえ面倒なことだと思う。自然に死にたい。
「自然に死ぬ」とはどういうことか?とさらに考える。「神に定められた死期に延命治療などせず静かに死んでいく」と私は考える。そして、私にその時期が来たらそこまで達観できるかと考えた。おそらく、できない。何しろ私は、今、過去を振り返っただけでも後悔することが山のようにある。我が人生に満足して笑って死ぬことはできそうもない、と考えて気付いた。樹木希林さんの「好きに死なせて」は「与えられた人生を十分楽しみました」という達成感から来ているのではないだろうか、と想像した。
記:2019.6.14 島乃ガジ丸
2011年3月11日の私の日記は「3時頃、ネットのニュースを見ると、東北で大地震があったとのこと。史上最強のマグニチュードの強さで、宮城では震度7とのこと」と始まって「帰ってからニュースを観ると、地震はただ事では無いようで、各局ともずっとニュースの特番をやっている」と大震災のことがあり、その日からしばらくは大震災のことを書いている。その頃はまだ家にテレビがあり、出勤日(概ね週2日)以外は朝からテレビの地震関連報道を観て「大被害」であることを知り、「原発事故」も起きたことを知り、それらについて書いている。その一方、日常のことも普通に書いている。
3月11日、大震災の記述の前に「Tからメールがあって、Iが亡くなったとのこと」とある。TもIも高校の時の同級生。その月はその後、TやIと一緒だった高一のクラス会の話、東京からの友人Iと飲みに行ったり、大学の大先輩Aさんに誘われ飲みに行ったり、「今日は久々現場仕事だった」などの記述もある。大震災については、「原発が気になる」と20日に書いて以降記載が無い。地震発生からたった10日で私の関心は薄くなったようだ。私にとっては遠い場所の他人事だったようだ。一昨日、黙祷はした。
あれから8年が経って、仕事が変わり、住居が変わりしている私だが、最近、体も変化しているとつくづく感じている。太った痩せたとかいう変化ではない、老化という変化。老眼が進み、筋力精力の衰退などの老化はもう何年も前、あるいは20年も前から気付いている。最近特に気になるのは頻尿、傷の治りが遅い、目の疲れ、首肩の凝りがなかなか取れない、空間認識能力低下、パソコン作業時のキーボードの打ち間違いなど。
空間認識能力低下とは、ここにあると思っていたコップに手がしっかり届かず、落として割ってしまうなどのことだが、キーボードの打ち間違いもそれに由来するのかもしれない。私は若い頃からパソコンをやっていてキーボードは慣れているはずなのに、腰痛となってからは頻繁に間違える。「なんじゃい!」と自身に怒鳴るほど間違うこともある。
空間認識能力低下は他に、手足を何かにぶつけるということもある。腰痛前にもそういうことはあったのだが、腰痛後は多くなった。ぶつけた痕は痣として残ることもある。そして、これも老化だろうが、痕がなかなか消えない。1年経っても消えない。
顔にできたシミのようなもの(老斑というのか)も出て来ている。顔の皺、手の甲の皺も増えている。身体能力だけでなくそういった見た目の老化も進んでいる。
見た目だけでなく身体能力やら健康状態も含めた老化防止のことをアンチエイジングというのだと思うが、私としては健康状態が第一、身体能力が第二、見た目はほぼどうでもいいことになっている。畑やっている頃は週に1回しか髭を剃らなかったのでほぼ毎日無精髭だったし、髪はいつもぼさぼさであった、白髪染めなんて考えたことも無い。
過日、ネットのニュースで「白髪染めしない近藤さとさん」というのがあった。2011年7月まではテレビを観ていた私は、観ている番組は「目覚ましテレビ」、「笑っていいとも」などフジテレビ系が多かった。なので、近藤さとは聞き覚えがあり、画像を見ると見覚えもあった。ネットで見るその姿は、確かに白髪交じりの頭、であったが、私としては「だから何?十分魅力的じゃねーか」という感想。年取れば若い女には無い熟した知識と感性がある。それは人として深く大きな魅力だ。健康であれば言うことなし。
記:2019.3.13 島乃ガジ丸
12月に入ると腰痛が軽くなった。ここ4、5日は不調だが、といっても11月までに比べればまだいい。もう半年ほど薬草と呼ばれる野菜を積極的に摂るようにしているが、腰痛の改善がそのお陰かどうかについては何とも言えない。日記を見ると、
6月28日、薬草研究科のHさんと会い、薬草に関する資料を多く借りて、以降、薬草の勉強をする。勉強しながら自ら薬草と呼ばれる野菜を積極的に摂るようにする。
7月からはほぼ毎日何かの薬草を食べたり飲んだりし、7月中旬からは軽めの筋トレとストレッチを始め、8月からはそれもほぼ毎日続ける。それでも腰痛は治らない。
12月1日から、これまで軽い運動だった筋トレを、少しきつめの筋トレに変更した。すると、4、5日経った頃から腰の調子が良くなった。1ヶ月ぶりくらいに会った友人に「腰治ったの?真っすぐ立っているよ、真っすぐ歩いているよ」と言われた。
14日、このところの腰の調子の良さに久々に長めの散歩をした。腰に痛みはほとんどなく気持ちの良い、というか、腰のことを気にしない普通の散歩となった。
腰の調子の良さはおそらくだが、私の体の筋肉が増えているせいであろう。スクワットもきつめにやっているので腰回りの筋肉も強化されているであろう。腰の痛みが軽くなったのはそのお陰であろう。素人考えなのだが、おそらく腰の骨の不具合はそう回復していないけれども、腰回りの強化された筋肉が骨の負担を軽減しているのだと思われる。
筋肉が強化されているはずなのに「ここ4、5日の不調は何で?」と自問し、筋トレが少々きつ過ぎるのかもしれないと考えた。体に対しては「過ぎたるは・・・」なのかもしれない。ということで17日からは、それまで夕方に1セットだけやっていた筋トレを3回に分けた。1度に30回ずつやっていたのを12回に減らし、それを1日に3回やることにする。スクワットも腕立て伏せも1度に12回程度だと楽。その上さらに、
筋トレは軽い内は特に辛いということはなかったが、強めの筋トレをすると、スクワット1つ終えるたびに、腕立て伏せ1つ終えるたびに息が上がる。高校生の頃の部活のトレーニングを思い出す。懐かしいけど楽しくない。「楽しくない時間は不要」と日頃思っている私なので、筋トレも何とか楽しくしなければならぬと考え、で、思い付く。
スクワットも腿上げも腕立て伏せもストレッチも、それらをやる際は12を数える代わりに呪文を唱えることにした。4分の4拍子の3小節をアンダンテで。ただ、私の唱える呪文は腰痛改善を目的としているが、「腰痛治れ、腰痛治れ」といったものではない。
最近見た夢の中で歌が1曲できた。夢は辺野古が舞台で、多くの人が基地建設反対の抗議活動をしている中、私は歌を作っていた。彼らへの応援歌だった。歌詞は1番だけだが曲はほぼできて、それをみんなで歌った。夢の中のことだが感動の場面。しかし、朝起きるとその歌をほとんど覚えていなかった。覚えていたのは歌詞の最初の方だけだった。
へのへのへのこの 平和を守れ のこのこへのこの この海守れ・・・
私の祈りが天に通じて辺野古基地建設が取り止めなり、普天間基地も全面返還されることになったら万々歳、もしもその祈りが通じなくても、そうやって筋トレを続けた結果、私の腰痛が治ったとしたら小万歳となる。ちなみに、私が呪文にしている3小節は、「へのへのへのこの この海守れ ちゅら海汚すな」で、ここまで唱えて12回となる。
記:2018.12.21 島乃ガジ丸
畑仕事を辞めてから家にいる時間が増えた。手放した畑の手伝いへたまに行く、親戚の庭掃除をする、図書館へ行く、買い物へ行くなどの他はほとんどヤーグマイ(家籠り)となっていて、睡眠が約8時間、炊事と食事が約3時間(その内晩酌が2時間)、掃除洗濯に(毎日では無いので平均して)1時間、その他トイレ風呂などが1時間、畑や図書館、買い物で外出しているのを1日平均して3時間ほどとして、残りは8時間。
8時間何しているかというと、散歩と庭掃除、ストレッチや筋トレに2時間ほどを使って、残りの6時間は概ねパソコン。しかし、老いた私の肉体はパソコン作業を2時間もやっていると目が疲れ、肩凝りがし、頭痛もし、腰も痛くなるので運動や散歩や庭掃除をその合間合間に入れている。若い頃のように長時間パソコンはできなくなっている。
日常のパソコン作業のほとんどは、エクセルやワード、メモ帳、画像編集ソフトを使った作業で、インターネットを使用することはほとんど無い。ネットと繋がないのでウィルスに感染する不安はない。なので、パソコンがセキュリティーのしっかりしている最新のものでなくても良い。ということで長くウィンドウズ7を使っていた。
長く働いてくれたそのウィンドウズ7ノートパソコンが2018年10月25日の夜、ついにお陀仏となった、あれこれ手当を試みたが翌日には諦める。アーメン。
平和運動家で薬草研究家でもある知人のHさんに、5ヶ月ほど前(6月終わり頃)に頼まれた薬草表作り、頼まれた分は既にできていたが、さらに良いものと思ってさらに詳しく、見易い薬草表作りに取り掛かっていた。そのパソコンがお陀仏、データの概ねはUSBメモリーに入れていたが、写真の一部はパソコンハードの中、「あちゃ、データが消えたか、完成までもうすぐだったのに」と思い、「もうだいぶ待たせているからなぁ、できた分でも持っていくか」となり、パソコンお陀仏の日から4日後、Hさんに電話。
「明日なら朝から公民館にいるよ、老人会と子供会の交流会がある」とのこと。で、翌日、薬草表をプリントアウトしたものを持って公民館へ行く。
公民館へ着いたのは午前11時頃、室内には数人の職員と、数人のご老人方と、たくさんの子供たちがいて、ワイワイと賑やかに何かやっていた。玄関から職員の1人に声を掛け、「Hさんに用があるのですが」というと、職員は子供たちの中に埋もれているHさんに取り次いでくれ、Hさんは立ち上がって私を見て手を振った。
Hさんは穏やかな人である。いつもニコニコしている。が、その時のHさんは破顔であった。そんな幸せそうなHさんの顔を見たのは初めてだった。まぁ、私と会って話をしていても心の底からの幸せを感じることは無く、破顔することも無いであろうが。それはともかく、幸せそうな顔のHさんを見て、なんだかこっちまで心が温かくなった。
「そうか、こういう老後の幸せがあるか」と気付く。Hさんは1人暮らし、結婚しなかったか、子供ができなかったか、奥さんとは別れたのか知らないが、Hさんから女房子供の話は聞いたことがない。仕事しながら平和運動家として頑張ってこられたのだろう。
などと思いながら「あーそうか、独りの人だってこういう繋がりを持てるんだ」と、幸せそうなHさんの笑顔を見て、同じく独居老人となる私の将来にも灯が見えてきた。ただそのためには、Hさんのようにニコニコ爺さんにならなければならない。なれるか?
記:2018.11.16 島乃ガジ丸
先日、友人の息子の結婚披露宴があり、私も招待され参加した。私はウチナーンチュらしく、ほんの数分であったが遅刻する。披露宴開始も平気で遅れるというウチナータイムは既に無くなって久しい、私が宴会場に入った時、席はほとんど埋まっていた。
新郎父親の友人達(高校の同級生で多くは私の友人でもある)が2つの隣り合わせのテーブルに座っていた。2つのテーブルに16名(私除く)の友人達がいた。よく会っている人、1~2年に1回は会う人が合わせて10人、10年ぶり1人、20年ぶり1人、30~40年ぶり2人、後の2人は同級生だったのかも覚えていなかった。
20年ぶり1人は、新郎父親からその名前はよく耳にしていたが、私は高校の頃あまり接点が無くて想い出は何も無い。が、30~40年ぶりの2人は、若い頃はよく会っていた。1人は家が近かったので、もう1人は同時期に東京暮らしをしていたので。
10年ぶり1人は、若い頃はたまに顔を合わせていたが、その後は数年に1回会うかどうかとなり、ここ10年ほどは見ること無かった。が、彼の噂は時々耳にしていた。
法律的にもうすぐ爺さんとなるオッサン16名は、職場によって違うだろうが、皆定年の齢を過ぎている。私が知っている14名は自営業をそのまま続けている者、継続雇用をした者、定年後他の仕事に就いているもの、様々であった。
私の席の左側にはKS、KY、MTと、卒業後も模合仲間として親しくしている友人が並び、同じテーブルにはその他、2年に1度は顔を合わせる養老会(養老ノ滝で飲んでいた)仲間のUK、HI、YMがいて、彼ら6人の近況は概ね耳にしている。
私の右隣にはMMが座っていた。彼とは約40年ぶりであるが、彼が誰であるかはすぐに判った。見た目も若い頃とそう変わらず、彼の持っている雰囲気が若い頃そのままだったから。MMは退職後、自宅を改装した小さなバーを趣味のようにやっているとのこと。第二の人生を大いに楽しんでいるようで、若々しい顔は明るく、イイ顔していた。
隣のテーブルを見ると、よく会っているKHを含め1~2年に1度は会っている4人が座っていた。その4人の近況はだいたい把握している。そのテーブルには他に5人がいたが、5人ともよく知らない。その内の1人がニコニコ笑って私に手を振ったので、私も振り返したのだが、誰であるか思い出すのに少々時間がかかった。
その彼の隣に座っている男、誰だか全く思い出せない男が立ち上がって私の所へ来て話しかけてきた。「久しぶり」と言う。私は正直に「申し訳ないが思い出せない、誰だっけ?」と訊いた。彼の答えを聞いて彼が10年ぶりの1人であることを知る。そう言えばその面影はある。が、10年前の彼とはその持っている雰囲気が全然違っていた。
彼が仕事を辞めた後、小説家を目指し作品も書いているという噂は聞いていた。小説家になる(まだその途上であるとのこと)とその醸し出す雰囲気も変わるのかと思ったが、いやいや、もっと何か、人生を大きく変える出来事が身の上にあったのかもしれないとも思った。悲壮感はなかった。穏やかな顔であった。諦観ということかもしれない。
その日、披露宴開始の午後1時から、MMがマスターやっているバーでの2次会終了7時過ぎまで同級生たちと大いに飲み大いに語り、久々に楽しい気分を味わった。同級生たちはそれぞれ山や谷を乗り越え、味のある顔になり、良き爺さんに近付いていた。
記:2018.10.26 島乃ガジ丸