ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

認知症の不安

2018年10月12日 | 通信-その他・雑感

 薬草を摂ることで腰痛が何とかならんかと思い立ち、今年6月末頃から薬草の勉強を始めているが、私が薬草の勉強をしていると知って、ブログの相互読者であるコスモスさん(彼女は薬草に詳しい)からあれこれ薬草に関する情報を頂くようになった。過日、そんな情報の中に「ハママーチ」という薬草名があった。ハママーチは聞いたことがある。それが薬草であるということは失念していたが、海辺の植物であることは覚えていた。
 その後、いくつかの参考文献を開いて調べる。ハママーチという沖縄語に該当する植物は2種、カワラヨモギとリュウキュウヨモギがあった。両者をさらに調べ、両者のブログ記事を書き上げた。そしてその2種を目次に加えようと目次ページを開いたら、なんと、両者は既に目次にその名があり、その名をクリックすると、ちゃんと記事がある。リュウキュウヨモギは2012年5月15日の日付、カワラヨモギは同年同月17日の日付。6年も前に既に記事を書いてアップしていたことを私は忘却していた。

 カワラヨモギの写真は2011年2月に、リュウキュウヨモギの写真は2012年1月にどちらも海洋博公園で撮ったもの。その頃、私はヤンバルへよく出掛けていた。2011年2月は埼玉の友人KRと沖縄在の友人KYと3人で海洋博公園へ遊びに行き、私は園内にあるたくさんの植物の写真を撮っていた。海洋博公園の植物には名札のついているものが多く、「何者か判明している植物もたくさんあったなぁ」と思い出し、PCの中のその日の画像フォルダを開く。その中に「判明しているけど未紹介の植物」がいくつかあって、その中にシバザクラという植物があって、「おー、きれいな花じゃねーか」と思い、調べた。海洋博公園の名札にはシバザクラとあったが、図鑑をあれこれ調べると本名はハナツメクサとあり、さらに詳しく調べブログ記事を書き上げ、ハナツメクサを『沖縄の草木』の目次に加えようと目次ページを開いたら、なんと、シバザクラという名称でハナツメクサは既に目次にあり、その名をクリックすると、ちゃんと記事がある。
 記事は2011年5月7日付であった。読み返してみたが、書いた内容はすっかり忘れていた。自分の脳味噌を疑ってしまう、「大丈夫か?オメェ」と。ただ、言い訳をさせてもらえば、これまで私が書いた『沖縄の草木』の記事は既に約900種。有名どころであればいくらか覚えているであろうが、ハナツメクサはマイナーな植物、これまで海洋博公園以外で出会ったことはない。なので、記憶に無くても不思議ではない。
     

 なんて言い訳したが、記憶力の衰えは間違いなくやってきている。先日、今住んでいるアパートの1階にある親戚の事務所へ用があって入った。事務員のMがそこにいることを知っていて、彼女にちょっとしたついでの用があり、それはすぐに済ませたのだが、彼女と少しユンタク(おしゃべり)している内に本命の大事な用を忘れてしまった。
 考えること約4~5分、「あんた、大丈夫?もう認知症が来ているんじゃないの?」と彼女に言われ、「そうだ、買いものだ」と思い出したふりして事務所を出たのだが、買い物ではない。大事な用は部屋に戻ってやっと思い出した。「大丈夫か?俺」
 こうやって作文ができている間は「まだ大丈夫だよ、俺」とも思うのだが、認知症の不安は、1人暮らしの私の場合大いにある。預金通帳をどこに置いたか忘れ買い物ができなくなるかもしれない。いや、それよりガスコンロの消し忘れが最も怖いかな。
     

 記:2018.10.12 島乃ガジ丸


自然寿命までの努力

2018年07月30日 | 通信-その他・雑感

 腰痛を患って(2017年夏頃)以降、体のあちこちに不具合が生じている。歯がグラグラしている(歯医者の診断では歯槽膿漏)、老眼が酷くなった、頻尿が酷くなったなどなど。老化といえば老化なのだが、「一遍にそんなに来なくても」と少々不満。
 腰痛のことを考えると気が塞ぐのであまり考えないようにしているが、「体が少々不自由になる」と考えると父のことを思い出す。父は50代で脳出血で倒れ右半身が不自由になった。頑張り屋の父はリハビリに努め、日常生活にも仕事にもさほど不自由を感じないほどに回復はしたが、右手で細かい作業をするのは面倒そうであった。そういうことに私は深い想いを寄せず、父の補助をすることもあまりなく・・・ということを思い出し、もっと優しくしてあげれば良かったと今更ながらに後悔している。自分の健康に不安を感じてからそう思うようになった。我が身を抓られてやっと人の痛さを知ったわけ。

 右手が不自由になったらと想像してみた。「生きていけないだろうなぁ」と思う。女房も子供もいない天涯孤独の身、朽ち果てるだけだろうなぁと思い不安を覚え、一昨日、長く(たぶん1年以上)弾いていなかったギターに弦を張り、ちょっと弾いてみた。左手も右手も若い頃と同じようにとはもちろんいかないが、取り敢えず動く。右手も弦1本1本を爪弾ける。「これならもうしばらくは大丈夫かもしれない」と、少し安堵する。
 じつは、腰痛が酷くなりつつあった今年3月頃から、自身の体の動きに不安を持つようになっていた。躓くことが増えた、家具などに足をぶつけたりすることが増えた、手も何かにぶつけることが増えた。などということがあったのだが、一昨日、午前4時前、月食の写真を十数枚撮った。どれもがボケていた、手振れだ、手が震えているようだ。
 「何じゃい、こりゃあ!これも老化か?それとも何かの病気か?」と不安を持つ。「何とかしなきゃあなるまい、体が不自由になることはなるべく避けなければならんぜ、まだまだ1人で生きていけるようにしなければいかんぜ」と思い、食事に気を付け、毎日少しでも運動をしなければと、さらに強く思うようになる。
     
     
     
 節制というのも少しはやっている。会社勤めをしていた頃は同僚達との飲み会も多く、友人達ともしばしば飲みに行っていて、1回で飲む量も多かった。それを反省して中期オジサンとなってからは週に2日は完全休肝日にして肝臓を休めるようにしていた。
 週2日の休肝日は300坪の畑を始めた2012年以降は守られなくなる。暑い夏の間は「ビール飲まなきゃあやってられねぇぜ」となって休肝日が月に1~2回となり、それに慣れて冬場も月に2~3回となっていった。それを反省し2017年から週一休肝日を概ね守り、その年の秋からは週に1~2回と増やし、今年5月からは3日に1回とさらに増やした。1回で飲む量も減らし、というか、歳のせいかあまり飲めなくなっている。
 タバコも辞めればいいのだが、今もまだ吸っている。世間が言うほど悪くはないのではないかというのが私の意見。ただし、量は減った。1日4~5本となっている。
 運動はなるべくやるようにしているが、腰痛があるので激しいことはできない。散歩、軽いストレッチ、軽い筋トレで済ませている。一人黙々と続けている。それらは「自然寿命が尽きるまでは元気で生きていたい」と願い、その為のちょっとした努力のつもり。この先酷い自然災害があるかもしれない。そんな時でも体が動くようにしておきたい。

 記:2018.7.30 島乃ガジ丸


気張る人

2018年05月18日 | 通信-その他・雑感

 私の腰は、一時期の酷い痛みからは脱却しているが、痛みは依然としていくらか残っている。現在の状況は、「走る、跳ぶ、重いのを持つ」はきついけれど、「歩く、軽いのを持つ」はできるので、腰に負担のある作業をしなければ日常生活に支障はない。
 私の体の不具合は腰の他にもある。歯。2016年12月に半分から割れていた右下奥歯のグラグラしていたその半分が、今年2018年2月21日午後8時、グラグラしている方の外側半分がついに根元から抜けた。大人になってからは初の抜け歯だった。
 その後しばらくは口内絶好調、痛い所が無くなって、右でも左でもよく噛めるようになって快食が続く。しかし、初抜け歯から1ヶ月も過ぎた頃から今度は左下奥歯の1本が痛みだした。その歯、4月中頃からグラグラ動いて、痛みもしだいに強くなり、5月になると物を噛むのも辛くなってきた。グラグラも酷くなり今にも抜けそうになっている。 
     
 そんなこんなもあって、つくづく自分の年齢を感じている。1ヶ月ほど前に、友人の1人が入院したと聞く。その後、彼と連絡がなかなか取れなかったのだが、彼の妻から連絡があり、脳出血だと聞く。「あー、俺たちもそういう年齢か」とさらに思う。
 入院した友人Mとは30年来の付き合いがあり、彼の妻のY女とも25年ほど前からの付き合いで、最初の頃はキャンプなどで年に1度以上、その後も数年に1度は顔を合わせていた。Y女は若い頃から明るく元気な人で、それは今も変わらない。
 彼女とメールのやり取りをし、大まかなことを聞く。入院したのは4月の初め頃、それから約1ヶ月間、リハビリに励んでいるが、まだ話の出来ない状態とのこと。

 過日、Y女から「だいぶ良くなったので面会OK」の連絡があり、面会に行く。
 ベッド上のMは、意識はしっかりしていたが、右半身不随で、言葉も未だはっきり喋れない。しかし私は、彼の言っていることの半分は理解できた。なぜなら、彼が頑張って意思を伝えようとしていたから。聞いている相手が理解できるようにと、左手で口の動きを補助しながら一所懸命しゃべる。そのお陰で私は彼の言葉の半分は理解できたのだ。
 相手に自分の意思を伝えるのに一所懸命になる。そんな彼を見ていて、生きようとする力を感じた。彼の女房に訊いたら、倒れて入院して1ヶ月、随分回復していて、やっと2日前から、はっきりではないけど何とか喋れるようになったとのこと。
 生きようと一所懸命にリハビリに励む友人、私はしかし、その妻であるY女の方に、より感心した。彼女はまだ成人前の、3人の子供をもつお母さん。彼女はまた、働くお母さんでもあり、車で片道30分ほどかかる職場まで自ら運転する車で通勤している。
 少し想像した。朝早く起きて、子供達の面倒をみて、出勤し仕事をこなし、仕事が終わると病院へ直行し、夫の様子を確認し、すぐに家に帰って家事、子育てとなる。「大変だなぁ」と思うのだが、そんな大変な日常を送っているのに、彼女は明るい。

 「チバリミソーリ」と私は彼女にエールを送った。チバリヨーという沖縄語はよく聞くであろう、気張れよの沖縄語読み、ソーリは丁寧語で「して下さい」となる。頑を張るのではなく気を張る、それが沖縄流。ちなみに、気張るは「気持を強く保つ」(広辞苑)という意。「気を張る力が強いんだな」とY女を見て、私は思った。
     

 記:2018.5.18 島乃ガジ丸


後悔役に立たず

2018年04月20日 | 通信-その他・雑感

 2週間ほど前、小豆島の友人Oから「情報教育と教育界の二刀流を目指します・・・紙もデジタルもと二刀流で、また、講義と討議という二刀流で」といった内容のメールがあった。初め私は、二刀流という言葉が何で頻繁に出てくるのか理解できなかった。
 しかしその後すぐに彼の意図する「二刀流」が解る。そのメールの中に「教育界の大谷翔平と呼ばれるように」というのがあって、「大谷翔平は聞いたことあるぞ、確か野球選手だったはず」と思いネットで調べ、二刀流という言葉が世間で流行っているということを知ったのであった。流行に疎いのはテレビを観ない弊害であろう。
     

 二刀流の文字を見て私が最初に連想したのは、これが普通だと思うのだが、剣豪宮本武蔵であった。武蔵というと巌流島の小倉や、洞窟に籠って『五輪書』を書いたという熊本などが思い浮ぶが、小豆島へ渡ったという話は知らない。小豆島のOが二刀流と言うのであれば、武蔵と小豆島に何か関係があるかもと思ったのだが、そうではないようだ。
 「今、二刀流が流行っている」ということを私が知らないからといって、それが変ということは無い。先日ラジオを聴いていたら、出演者の1人が私と同じく大谷翔平のことをよく知らない人であった。その番組は年配の男性と女性との2人で沖縄を語るといったような番組で、男性の方は大谷翔平のことを知っていて、その上で二刀流の話を始めたのだが、女性の方は野球に興味がないようで、彼女も宮本武蔵の名を出した。
 そうなのである。誰も彼もが同じことに興味を持っているわけではないのだ。私と同じようにプロ野球にも大相撲にも、スポーツ全般にあまり関心がないという人はいくらでもいるだろう。そういう人達にとっても、私にとっても二刀流と言えば武蔵なのだ。

 小豆島の友人Oからのメールを読んで、宮本武蔵を連想した私は、若い頃(たぶん高校生の頃)夢中になって読んだ吉川英治作の小説『宮本武蔵』を思い出し、お通やら沢庵といった登場人物を思い出し、佐々木小次郎、柳生宗矩なども思い出し、「そういえば山岡荘八作の『春の坂道』も夢中になったなぁ」と思い出し、「どちらもNHKのドラマでやっていたなぁ、ドラマにも夢中になったなぁ」と思い出し、で、ノスタルジーで胸がキュンとしてしまった。ちなみに、恋で胸キュンはもう20年ほども無いのだが。
 宮本武蔵を連想し、そこからあれこれ頭に浮かんだのであるが、「恋で胸キュンはもう20年ほども無い」は置いといて、『春の坂道』も柳生但馬守も沢庵禅師も置いといて、今回は、武蔵から思い浮んだある言葉について深く考えてしまった。

 その言葉とは「我事において後悔をせず」。腰痛を患い、自給自足芋生活の夢を諦め、人生初の大きな挫折感を味わい、過去の自分のあれこれを思い出し、昨年11月頃から後悔ばかりしていた数ヶ月を経た後だったので、その言葉が身に沁みた。
 若い頃は、「済んだことはしょうがない、過去を振り返ってくよくよ後悔してはいけない。」ということであろうと解釈していた。その解釈が正しいかどうかはさておき、
 「くよくよ後悔して落ち込むのは時間の無駄、後悔役に立たず」であるという思いは、もうすぐオジーと呼ばれる年齢になった今も同じ。もうすぐオジーはそれに加え、「後悔しないようによく考えて行動しよう」というのも解釈の1つとした。
     

 記:2018.4.20 島乃ガジ丸


40年前の教え

2018年02月23日 | 通信-その他・雑感

 今月(2月)15日から、旧居から新居への引っ越し荷物運びをしている。
 その最中の20日、午前中に旧居から新居へのエアコン移設を業者に頼んでやってもらい、私は私で相変わらず荷物運びをした。その日までにたくさんの荷物を運んでいて、腰痛はきつくなっていた上、その日運んだのは少々重いもの、腰は悲鳴を上げていた。
 新居の建物に喫茶店があり、そこは以前から馴染みにしており、その日、荷物運びが終わった後に顔を出す。店長のH子と、その友人のM子が客として来ていた。H子もM子も私よりほんの少し年上、H子は従姉で、M子も若い頃からの顔馴染み。
 「引っ越し作業で腰痛ぇ。」と私が愚痴ると、
 「自分でやっているの?」とM子。それに肯くと、
 「何で業者に頼まないの?1日で終わるよ。」
 「うん、これまで何度も自分でやってきたし、今度も自分で出来ると思ったんだ。腰のことを考えれば、業者に頼めば良かったと後悔しているよ。」
 後悔先に立たずと知ってはいるが、ついつい愚痴ってしまった。
     

 引っ越し準備のついでに家中のダンシャリを年末からずっと続けているが、年明け1月には想い出のレコード、CD、書籍などを処分した。LPレコード、CD、書籍は既に、前の前のアパートから引っ越す際(2011年9月)、大量に処分しているが、想い出のいっぱい詰まったものは捨てられずにいた。例えばLPレコード、最後の最後まで残っていたのは13枚。それらも友人たちに引き取って貰い、全て処分。
 最後まで残っていたLPレコード13枚の中に友人の自主製作盤がある。友人Kが約40年前に製作した全10曲のアルバム。10曲全て彼の作詞作曲、歌も編曲も演奏も、全て彼自身によるもの。その全10曲はMP3化してパソコンに取り込んである。
 友人Kのレコード全曲のMP3データをUSBメモリに入れて彼にプレゼントしたのはごく最近、今年(2018年)1月下旬のこと。それを聴いて彼も懐かしく思ったに違いない、すぐにメールがあった。そのメールに対し私は、「私は(歌を聴いて)ノスタルジーで涙が出た」と返信した。「涙が出た」は少し誇張だが、ウルウルは確かにした。友人Kのレコードは我々が大学時代に生まれたもの。40年前がすぐに蘇った。

 想い出もダンシャリしようとしている頃は、腰痛になって、畑を辞めるとなって挫折感に浸っている頃、「バカなことをした」と自己嫌悪にも陥っている頃だ。ノスタルジーとは別に、「お前、大丈夫か?」と問われているように感じることもあった。
 KのLPレコード全10曲、その中の1つに、
 お前はいつも愚痴ばかり そんならさっさとやめちまいなよ
 という歌詞の出てくる歌がある、10曲の内の1番目だ。それが心に響いた。友人Kはもう40年も前に「愚痴をこぼすことはくだらないこと」と悟っていたわけだ。
 その歌『お前はいつも愚痴ばかり』を聴いて、初めて聴いた日から約40年後、爺さんにならんとする年齢になって「もう愚痴はこぼすまい」と、私は思った。「やっちまったことはしょうがない」と開き直って、「腰が治らなくてもそれなりに生き様はあるだろうさ」と、確たる根拠は無いが、そんな希望を持つようにした。
     

 記:2018.2.23 島乃ガジ丸