ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

県民総決起大会

2012年08月10日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 2012年8月5日、県民総決起大会の開催が予定されていたが、ちょうどその日に沖縄島に影響を及ぼした台風11号のため、日程未定のまま延期された。そういった抗議活動の類に私は参加した経験が無いのだが、今回は参加しようと決めていた。残念。

 17年前の1995年10月21日にも県民総決起大会が開かれている。同年9月4日に起きた沖縄米兵少女暴行事件、わずか12歳の少女を米兵3人が拉致し、集団強姦したという悲惨な事件、それだけでも怒り心頭なのに、日米地位協定によって犯人3人の身柄が沖縄の警察に引き渡されなかったことが、県民感情を爆発させ、日米地位協定の改正を求めるとともに、基地の縮小・撤廃を求めて県民総決起大会となった。
 どの大会にも参加した経験の無い私はもちろん、その大会にも参加していない。ただ、テレビのニュースでは何度かその様子を観ている。普天間高校の女生徒が壇上に立ち、マイクの前で抗議文を読んでいる姿を覚えている。暴行事件もニュースで知っている。当時の私はそれに腹を立てなかったのだろうか?県民総決起大会にぜひ参加しなきゃあと思わなかったのだろうか?「アメリカは沖縄から出て行く気は無いし、日本政府は絶対出て行って欲しく無いんだから抗議しても無駄だよ」とでも思っていたのだろうか?

  1995年、沖縄米兵少女暴行事件が起きた9月から県民総決起大会が開催された10月にかけて私は何をしていたか?・・・日記を調べる。当時は日記帳への手書き、数日分をまとめて書いてあるみたいで「思い出せない」とだけ書いてある日も多い。
 さて、沖縄米兵少女暴行事件がニュースに流れ、新聞に載ったであろう9月5日からの一週間は、職場が催事に参加していてそれに関わる作業で忙しくしている。事件の事は何一つ書いていない。県民総決起大会の日にいたっては「思い出せない」とあった。
 日記から判明した。私は社会の問題に対する関心が薄い人間だったのだ。テニス、太極拳、キャンプ、酒といった自分の楽しみに時間の多くを割いていたようだ。
     

  他人の不幸などどうでもいいと思っていたらしき不届き者の私の事などはさておいて、あれから17年が過ぎた。沖縄の怒りは日本政府及びアメリカ政府に届き、何ら改善が見られたのか?・・・否である。日米地位協定の改正は僅かに運用の見直しで、アメリカ軍側の「好意的な考慮」という形で、凶悪事件の場合は沖縄側へ犯人の引き渡しもありえるといった程度の改善に過ぎなかった。そして、基地の縮小・撤廃は・・・。
 基地の縮小・撤廃を求め続けたのにも関わらず、少なくとも基地機能はさらに強化されようとしている。今回開催する予定だった大会は、直接的には市民生活のど真ん中にあって世界一危険な基地と言われている普天間基地に、危険な軍用機オスプレイを配備することに対する抗議であり、そしてもちろん、基地の縮小・撤廃も求めている。

 不届き者の私が、何故今回の大会には参加する気になったかと言うと、東村高江や名護市辺野古の基地建設反対運動の人々に会い、彼らが何年も頑張り続け、基地建設を阻止し続けていることに感銘し、「もしかしたら、努力は大山を動かすかもしれない」と思ったからだ。大山はあまりにも大きいけれど、今日1ミリ動かせば、明日には2ミリ動くかもしれない、県民総決起大会にその力はあると思ったからだ。
     

 記:2012.8.6 島乃ガジ丸 →沖縄の生活目次


米軍上陸地点

2012年06月22日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 沖縄地上戦の始まり

 明日6月23日は67回目の慰霊の日。「慰霊の日」とは何か?広辞苑には載っていない。ちなみに、「終戦記念日」も広辞苑には無い。
 「慰霊の日」、広辞苑には無いが、『沖縄大百科事典』にはある。要約すると「1974年10月、県条例により制定された沖縄県独自の祭日。世界の恒久平和を希求するとともに、戦没者の霊を慰めることを目的とする」日のこと。
  6月23日は日本軍による組織的戦闘が終わった日であり、終戦では無い。生き残った日本兵達があちこちでゲリラ的戦闘を行っていたらしい。7月2日、米軍が沖縄戦終了を宣言するが、なお守備軍の残存部隊は抵抗し、その部隊が米軍との間で降伏調印を行ったのは9月7日になってのこと。その日で沖縄線はやっと終結したことになる。

 6月23日から9月7日までの間に、戦闘で、あるいは戦闘に巻き込まれて死んだ人も多くいたであろう。まったく無駄死にだ。こんな無駄、民間企業であれば、「何て無駄な事しやがる!会社を潰す気か!」と怒鳴られるに違いない。
 話が逸れてしまった。終戦の頃の話はまた別の機会に譲るとして、今回は沖縄戦の始まりについて、艦砲射撃から米軍上陸にかけての事を紹介してみたい。

 1944年10月10日
 「十・十空襲」と呼ばれる米軍による大規模な空襲がある。
 アメリカ海軍機動部隊による南西諸島への大規模空襲。沖縄大空襲ともいい、沖縄島の他、慶良間諸島、宮古島、石垣島、大東島、奄美大島、徳之島も攻撃された。
 日本軍の基地破壊が主な目的で、飛行場の軍用機、港に停泊中の艦船などを爆撃し、壊滅的な被害を与えた。空襲は民間地にも及び、特に那覇市の被害が甚大であった。あちこちで火災が発生し、市街地の9割が焼失し、死者は255人にのぼった。

 1945年3月23日
 米艦隊による沖縄島への艦砲射撃が始まる。この日が沖縄戦開始とされる。鉄の暴風と呼ばれるほどの激しい攻撃で、民間人を含む多くの死者が出た。

  同年3月26日
 アメリカ軍が慶良間諸島に上陸、慶良間諸島には2千名以上の日本軍がいて、特攻艇も使い抵抗したが、31日占領される。ここで、いわゆる「集団自決」が発生する。集団自決者402名を含め、軍民あわせて1220名の戦死者を出した。

 同年4月1日
 米軍が北谷、読谷に上陸。ここから沖縄地上戦が始まる。米軍上陸地点は読谷村から北谷町にかけての約13キロメートルの海岸線で、読谷村渡久地の泊城公園に米軍上陸の地碑があり、北谷町砂辺の砂辺馬場公園に米軍上陸地モニュメントがある。
 その日の内に米軍はチビチリガマに迫る。チビチリガマとは「集団自決」のあった所としてもっとも知られているガマ。集団自決は翌4月2日のこと。

     
     

 記:2012.6.22 ガジ丸 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行


シュガーローフ

2011年01月06日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 旧盆の最終日、ウークイ(御送り)の日、実家へ行くついでに沖縄の戦跡巡りその3として、シュガーローフを観に行った。実家からは徒歩15分程度の場所にある。
 那覇市の繁華街といえば国際通りが有名だが、地元の人間が遊びに行く場所としては、数年前から既に国際通りよりも人気のある場所がある。那覇新都心、そのメインストリートには県立博物館美術館、大型スーパー、電気店、書店などが建ち並び、その東端には、ブランド品が安く入手できるということで、観光客に大人気の大型免税店がある。その免税店の道向かいに、沖縄戦の激戦地だったシュガーローフがある。

  シュガーローフはアメリカ軍の呼び名、Sugarloafというスペルで、英和辞典を引くと、「円錐形に固めた白砂糖。すりばち山。」といった意味。沖縄では、慶良間諸島が一望できることから「慶良間チージ」という呼び名だったらしい。シュガーローフは現在、那覇市の上下水道局が管理する安里配水池として使われている。
 現在のシュガーローフ、丘の高さは、私の目測で16、7m、最も長いところはメインストリート側で、私の歩測で約100mほど。丘の上に大きな白い水タンクが建っているので、新都心のメインストリートを東向きに歩いて行けば、すぐに目に付く。

 シュガーローフの戦いについては、沖縄戦を記録した本にはたいてい載っており、『沖縄大百科事典』にも記述がある。大変な激戦であったということから一つの歴史として残っているのであろう。アメリカ軍にとってもその激戦は記録に残すべきものであったようで、『沖縄シュガーローフの戦い』という本がアメリカで出版されている。
 その本、邦訳されたものが石嶺図書館にあったので借りる。借りて読む。350ページほどもある厚い本だ。読書慣れしていない私にはきつかった。また、老眼鏡も長時間かけていると肩こりがした。なので、2週間経ってもなお、読み終えていない。

 激しい戦闘が行われた当時の形状が、『沖縄シュガーローフの戦い』に記されている。「高さ15メートルから20メートル、長さ270m、南東約400メートルにはハーフムーン、南180メートルにはホースショア・・・。」とのこと。
 高さはあまり変わらないが、長さが約三分の一になった。削られて道路や宅地になってしまったのであろう。シュガーローフ全体が造成地の予定だったらしいが、激戦地を後世に残そうという運動があって、現在の形で残っているとのことである。

  シュガーローフは、日本軍本体のある首里城の西に位置し、アメリカ軍の侵攻を食い止める前線であった。南東のハーフムーン(half moon)という半月形の丘と、南のホースショア(horseshoe)という馬蹄形の丘の3箇所に日本軍は防御陣地を置き、互いをトンネルで繋いで、強固な防御態勢を敷いた。ために、アメリカ軍は非常に苦戦した。
 1945年5月12日から18日にかけて戦いは続き、その1週間で、「アメリカ軍は2662人の死傷者と1289人の戦闘疲労者を出した。」(沖縄大百科事典)
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

 旧盆の最終日、実家でウークイ(御送り)の準備をしていると、友人のHから電話があった。「このあいだ話した真嘉比の遺骨収集、今、テレビでやっている。」と言う。真嘉比は地名で、安里の隣に位置する。で、翌日、遺骨収集の場所をネットで調べる。翌週、現場へ出かける。予想通りであった。今なお、多くの遺骨が眠っているという場所は、小さな丘となっていた。ここがハーフムーンであった。
     
     
     
     
     
     

 記:ガジ丸 2008.9.8 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄シュガーローフの戦い』ジェームス・H・ハラス著、猿渡青児訳、光人社発行


旧海軍司令部壕

2011年01月06日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

  我が島で昔あった悲劇を、もっと知らなくてはならないと思い、7月から戦跡巡りをしている。戦跡も、有名どころの摩文仁の丘やひめゆりの塔、健児の塔などはこれまでに何度も訪れている。ところが、以上挙げた箇所以外の戦跡を私は見ていない。調べると、実家(那覇市泊)の近くにも、今住んでいる首里石嶺の近くにも戦跡はあった。
 前回は、私の住まいから車で10分ほどの距離にある嘉数高台を紹介した。そして、第二回目となる今回は、車で30分ほどの距離にある旧海軍司令部壕。ここは有名である。私も若い頃から知っている。知っているが、訪れたことは無かった。

  旧海軍司令部壕は沖縄方面根拠地隊の最後の陣地。豊見城市の北、那覇市との境界近くに位置する。沖縄方面根拠地隊とは沖縄戦における日本の海軍部隊の名称。兵員は約1万人(そのうち3割は現地徴収の素人兵)、その主力は小禄海軍飛行場(現那覇空港)の守備にあたった。司令官は、「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文で有名な大田実、旧海軍司令部壕は彼の最後の場所である。
 沖縄方面根拠地隊、兵は1万にも満たない。一度南部に撤退した際、銃火器類を破壊したため兵器も脆弱であった。6月4日にアメリカ軍が小禄海軍飛行場に上陸すると、日本軍は6日に海軍壕に退き、12日に戦闘は終わり、13日に大田は自決する。
  大田の「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文は6日に打たれている。壕に立て篭もった日だ。その前日には、「最後まで小禄で闘う」と沖縄戦の最高司令官牛島満宛に電報を送っている。玉砕覚悟で壕に入ったのだ。そして、死を前にして、これまでを振り返り、沖縄の悲惨な現状と沖縄人の奉仕ぶりを電文にした。
 長くなるが、その電文の全文を判りやすく訳してみた。以下。

 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告されるべきものですが、県には既に通信能力が無く、三二軍司令部にも通信の余力が無いと思われるため、県知事の依頼を受けたわけではないけれども、現状を看過することができず、代わって緊急に申し上げます。
  沖縄島に敵軍が攻撃を開始して以来、軍は防衛に専念して、県民に関してはほとんど顧みる暇はありませんでした。
 しかしながら、私の知る限りにおいては、県民は、青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残った老幼婦女子は相次ぐ爆撃に家屋と財産の全てを焼かれ、身一つで軍の作戦に差し支えのない小さな防空壕に非難し、爆撃の中、風雨に晒され、乏しき生活をしている。
 しかも、若い婦人は率先して軍に身を捧げ、看護婦、炊事婦はもちろんのこと、砲弾運びや、挺身切込隊にまでも参加申し込みするものまでいる。
 しょせん、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致されて毒牙に供せられるに違いないとして、親子は生き別れ、娘を軍の門前に捨てる親もいる。
 看護婦にいたっては軍移動に際し、衛生兵が既に出発した後、残された身寄りの無い重傷者を助けて●●。真面目で、一時の感情で動いているものとは思われない。
 さらに、軍において作戦の大転換があると、自給自足しながら夜中に指定された遠隔地域まで、黙々と雨の中を移動する。これは陸海軍が沖縄に進駐以来続いている。
 勤労奉仕や物資節約を強要されつつ(一部には悪評も無くは無いが)、ひたすら日本人としての御奉公の思いを胸に抱きつつ、遂に●●●●与え●ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形●●●●●●。
 一木一草焦土と化した。糧食は六月一杯を支えるのみという。沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 注:●は判読不明箇所。「沖縄県民斯ク戦ヘリ」以下は原文のまま。

 訳しながら、ウルウルする。そして、平和な時代に生きていることを有り難く思う。
 私は一所懸命とか根性とか全く似合わない性格で、「石に齧りついてでも」とか、「なにがなんでも」とか言って目標を達成しようなどと思ったことは、かつてこれっぽちも持ったことが無い。概ね「ゆるゆる」と生きている。ところが、戦争についてだけは、「なにがなんでも」という言葉を使いたい。なにがなんでも戦争は避けたい。
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

 記:ガジ丸 2008.8.17 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行


嘉数高台公園

2011年01月06日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 25年ほども前になるが、大学を卒業して沖縄に帰った頃、宜野湾市嘉数に友人のTが住んでいた。新婚のそのアパートにたびたびお邪魔して、そこからすぐ近くに嘉数高台公園という名の公園があることを知った。公園の前を車で通ったことも何度かあり、そこの看板に『京都の塔』と書かれてあることも知る。○○の塔と都道府県名の名の付いた慰霊塔は、そのほとんどが糸満市の摩文仁の丘にある。で、「何でこんなとこに」とその頃から不思議に思っていた。にも関わらず、そこを訪ねることは無かった。
 沖縄戦の資料を読んで、嘉数高台が激戦地だったということを知り、そこが家から近いということもあって、「沖縄戦の戦跡巡り」の一番目とし、先月、初訪問した。

  米軍は、3月26日に慶良間列島に、4月1日には沖縄島に上陸する。沖縄島の上陸地点は読谷村から北谷町にかけての海岸。そこから北進と南進に分かれる。沖縄島北部には日本軍は少なく、大きな抵抗も無く、20日にはほぼ制圧する。
 ところが、日本軍の主力がある南部では大きな抵抗に会う。その最初の激戦地が嘉数高台となった。4月5、6日に緒戦、10日に第二次攻撃、4月19日に総攻撃、そして、24日になって、嘉数高台は米軍の手に落ちる。
 激戦地となった場所は標高70mの西嘉数高地、標高92mの東嘉数高地の北西から南西に走る約1キロの稜線で、そこは守備側に有利な自然の要塞であったようだ。ために、米軍は手こずり、日米共に多くの戦死者を出したとのこと。

  嘉数高台は公園として整備され、今は市民の憩いの場となっているが、そこには京都の塔、嘉数の塔、青丘之塔、実際使われたトーチカなどの戦跡が残されている。
 慰霊の塔の多くが摩文仁の丘にあるが、嘉数高台の守備隊には京都出身者が多かったため、この地に京都の塔がある。その碑文には「沖縄住民の運命をともにされたことはまことに哀惜に堪えない」と、沖縄住民の犠牲を慮る一文も添えられてある。
 嘉数の塔は、犠牲となった嘉数地区の住民の慰霊塔。当時、嘉数地区には695人の一般市民がいて、その内の374人が犠牲となった。過半数である。
 青丘之塔は、沖縄戦で犠牲となった韓民族出身者の慰霊塔。軍人、軍属として強制連行された人々である。その数、386人と記述されている。強制連行された人数が明記されているのは全国の数多くある慰霊塔の中でも珍しいとのこと。また、強制連行された軍属の中には慰安婦も入っているとのこと。
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

 記:ガジ丸 2008.8.9 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行