ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

若夏の終わる頃

2011年01月06日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 今年の沖縄は梅雨入りが2週間遅れて、梅雨明けが10日ほど早かった。梅雨入りの平年値は5月8日頃、梅雨明けの平年値は6月23日頃、今年はだから、梅雨の期間が平年の半分しか無かったことになる。観測史上3番目の短さとのこと。
 短い梅雨が明けたのは17日の火曜日、それから数日間、熱帯夜が続いた。那覇市の最低気温は26度から27度だった。西日がガンガン照り付け、クーラーの無い私の部屋はもちろん、もっとずっと暑い。今年は特別暑いのだが、例年だと、梅雨が明けて7月初旬までは、沖縄もまだ、“非常に”とか“死ぬほど”とかの付く本格的な夏では無い。
 旧暦4月から5月(今年は5月5日が旧暦4月1日、7月2日が旧暦5月末日)頃のことを沖縄では若夏と言う。夏がまだ本格的では無いということだ。若夏の終わる頃は梅雨が明けて、ギラギラの太陽がガンガン照り付けるが、風があるので、日陰にいれば気持ち良く過ごせる。そしてその通り、土曜日からは例年のような過ごしやすい夜となった。

 63年前の若夏の終わる頃、梅雨明けの平年値である6月23日に、沖縄戦での日本軍による組織的戦闘が終わった。ということを私は子供の頃から聞かされ、知っている。ウチナーンチュの多くが、殺されるという恐怖から開放され、生きていけるかもしれないという希望を抱いた日、6月23日は慰霊の日とされ、沖縄の終戦記念日となっている。
  63年前の若夏の終わる頃をもう少し知りたいと思って、今回、久々に読書をした。沖縄戦を記録した写真集2冊に目を通し、沖縄戦に関する資料2冊を読んだ。
 知らないことが多くあった。組織的戦闘が終わってから捕虜となる人々が出てきたのだろうと思っていたが、沖縄島南部で激しい戦闘が続いていた頃、中北部や離島では既に戦闘はほぼ終わっていた。アメリカ軍が沖縄本島に上陸した4月1日から中北部では捕虜になる人々が多くいたようで、4月中に、あちらこちらに収容所が設けられている。
 アメリカ軍が慶良間諸島を占拠したのは3月26 日のことで、沖縄本島読谷、嘉手納に上陸したのは4月1日のこと。そこから北と南に分かれて進軍するが、日本軍の本体は南部にあり、沖縄本島中北部では、上陸地近辺での戦闘、飛行場のあった伊江島での、島民の三分の二が戦死するという悲惨な戦闘以外、大きな抵抗は無かったようだ。
 ところが、日本軍の監視の厳しい南部では、住民も簡単には捕虜になることができなかった。ウチナーンチュにとっては、アメリカ軍だけで無く、日本軍もまた恐怖の対象であった。日本軍は住民を盾にして、住民に犠牲を強いたようである。

 「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれた電文が、6月6日に本土の海軍次官充てに送られた。送ったのは沖縄特根司令官の大田実。
 「沖縄県民は一所懸命、身を犠牲にして軍に協力した。そして今、沖縄と沖縄県民はたいへん悲惨な状態にある。だから、後世、沖縄県民には特別な配慮をお願いします。」といった内容。軍の司令官にも沖縄の悲惨を憂える人がいたのだ。最後の「特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」に、いかに悲惨であったかを想像させられ、胸が痛む。
 沖縄戦が、戦争終結の際に少しでも有利な条件を得るための時間稼ぎだったということも中学か高校の頃に聞かされている。あまりにも悲惨な時間稼ぎである。
     
     

 記:ガジ丸 2008.6.21 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


良き隣人

2011年01月03日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 復帰後、日本の経済発展のお陰で、つられて沖縄も発展して、沖縄の物価がアメリカを凌ぐようになり、今では近所にアメリカ人が住んでいるなんてことはほとんど無いが、私が子供の頃、沖縄はまだ本土復帰前で米軍の統治下にあった。その頃は、アメリカは裕福で、沖縄は貧乏であり、貧乏なウチナーンチュにとっては家賃の高いアパートも、アメリカ人にとっては安かったらしく、民間のアパートに住むアメリカ人も多くいた。そういったアメリカ人は軍人では無く、軍属である。軍人は基地内に住まいがある。
 私の家の向かいにアパートがあり、そこにアメリカ人一家が住んでいた。私と同年代の男の子が一人いた。名前も覚えている。愛称なんだと思うが、彼はポッカと言った。ウチナーンチュは人の名を語尾を伸ばして呼ぶので、我々は彼をポッカーと呼んだ。
 なにしろ言葉が通じないので、そうたびたびでは無かったが、彼と一緒に遊ぶこともたまにはあった。で、名前を覚えているのだ。そう仲良しってわけでも無いが、仲が悪かったなんてことも無かった。我々も普通の人間で、彼も普通の人間で、わけも無く嫌い合うようなことは無かったのである。我々は、まあ、普通に良き隣人であった。

 今週の別の記事『嘉手納カーニバル』で紹介している『隣人の素顔』(NHK沖縄放送局編)という本では、米軍も現地との相互理解に力を入れるようになり、それ専門の部署を設け、現地との交流をスムーズに運ぶようにし、米軍内部に対しては、現地住民の「良き隣人」になるようにと指導しているようなことが書かれてあった。
 相互理解を深めるために、米軍もいろいろ努力しているようである。私も相互理解が進むことには賛成である。どんどん交流を深めていったら良いと思う。しかしながら、相互理解の、その目的は彼我で大きく異なっている。同床異夢である。
 米軍にとって沖縄の基地は、東アジア戦略の重要な基地である。しかも、ここは太平洋戦争における大きな戦果でもある。戦争に勝って得た領土である。手放すわけにはいかないのである。なので、現地住民の基地反対運動は彼らにとって困ったことなのである。できれば、現地にも基地運営に協力的であって欲しいのである。これが彼の目的。
 相互理解は良いことであると言う我の目的は、「ウチナーンチュは争い事を好まない平和を愛する人々である。」と理解させ、「こんな島に戦争の可能性のある武器や基地は似合わない。」と思わせることにある。まあ、何とも甘い考えであるが、しかも、そのためにはウチナーンチュがそうであるよう努力をし続けなければならないが・・・。

  いつの日か、良き隣人が、戦争の可能性の全てを引っさげて、沖縄から出て行く。隣人が去っていくのは淋しいことであるが、沖縄が良い島であれば、そこには戦争の可能性を持たない新たな隣人がやってくるであろう。そして、沖縄が良い島であればまた、去って行った良き隣人たちも、いつか良き旅人となって訪ねて来て、旧交を温めるなんてことがあるかもしれない。まあ、なんとも甘い考えではあるだろうが、全く可能性が無いわけでは無い。未来には、そんな甘い考えが実現するであろうと夢を見つつ、少なくとも今、隣人である間は、互いに良き隣人でありたいと思っている。

 なお、『隣人の素顔』は2000年の発行で、今からもう7年前の話である。この7年間で米軍側の、相互理解への取り組みはさらに進んでいるに違いない。基地反対の立場にいる人でも、身元がはっきりしていて、ちゃんとした理由があれば、基地内見学を許可してくれるに違いない。近いうちに、申し込んでみようかと思っている。
     

 記:ガジ丸 2007.3.24 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


沖縄の中のアメリカ

2011年01月03日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 ある日曜日、米軍基地内にあるレストランへ出かけた。米軍基地の中へは一般の日本人(もちろんウチナーンチュも含めて)は普通入れない。基地内へ出入できるパスを持っている人の好意で、彼のゲストとして入ることができた。
 基地内へ入るのを私は過去に何度も経験している。父親が米軍基地で働いていたので、子供の頃に何度かあり、大人になってからも仕事の関係で何十回となく行っている。その仕事を辞めて二十年ばかりになる。よって、今回の基地内進入は二十年ぶりとなる。

 店のボーイ(日本人)さんに、「写真を撮っても構いませんか?」と訊いた。「構いません」との返事。ここには軍事的な施設は無く、住居が主で、レストランやスーパー、文化施設などがあるだけとのこと。写真はフリー(注1)であった。
 ということで、レストラン内の、食事を楽しんでいる人々も撮った。客は家族連れが多かった。みな幸せそうである。基地の中は平和ですと感じられる写真である。
 前にもどこかで書いたかもしれないが、私は人妻の浮気、人夫の浮気に対しては寛容である。それと同じくらいに政治家が私腹を肥やすことに対しても寛容である。「その代わりおめぇ、平和を守ることに関しては全力を尽くせ。」という条件をつけるが。平和でありさえすれば、私は生きていける。貧乏でもいいのだ。
 前にも紹介したが、「百年兵を養うは、ただ平和を守るためである」(山本五十六)は正しいと思う。軍隊はあっても無くてもいい、基地はあっても無くてもいい。平和であることが最も大事。100年平和が保障されれば、その間、基地は必要ない。100年(なるべくなら1000年くらい)、平和が保障されるような世界規模のシステムがいつかできるであろうか。人類の叡智はそこまで進歩するのであろうか。

 レストランにアルコール飲料は少なかった。昼間からアルコールを飲む人は、今は少ないようだ。二十年前までのアメリカ人たちはビールを水代わりのように飲んだ。水という認識なので、車運転しながらも飲んだ。ウチナーンチュにもそういう人は多くいた。夏、肉体労働をし、したたか汗をかいて、その帰りの車の中でビールを飲む、という光景を私は何度も目撃している。昔の話である。最近は、暢気者のウチナーンチュたちも飲酒運転が罪であることを認識しつつある(注2)、たぶん。
 沖縄が本土復帰する以前、米軍人による犯罪は多かった。ベトナム戦争の頃である。戦地に送られて命のやり取りをする若い米兵たちである。彼らの精神が不安定な状況にあったことは容易に想像できる。だからといって犯罪を犯してよいということは無い。沖縄の夏は暑い。そこでの肉体労働はきつい。喉も胃袋もビールを熱望する。その時のビールほど旨いものは無い。だからといって飲酒運転してよいということもまた、無い。
 復帰後、米兵たちの品格は概ね上昇していった。事故や事件が起きるたびに沖縄県や市町村から綱紀粛正の要望が出される。米軍はそれに応える。などということが続いて、今は、米兵たちの品行は昔に比べ、概ね方正となっている。

 レストランの中にフリーマガジンがあった。OKINAWAという名前。ページの半分以上は広告が占めている雑誌。沖縄だけで無く、日本全般を紹介している。
  毎号、観光と文化を紹介しているみたいで、12月号の観光地は鎌倉、文化は沖縄のサンシン(三線、三味線のこと)、剣道、沖縄ガラス。1月号の観光地は岡山と沖縄のホェール・ウォッチング、文化は日本の正月と寿司。詳しい内容については、私は英語がほとんど読めないので紹介できない。でもまあ、「地元のことを理解し、仲良くしようぜ」というアメリカ軍の意図はよく理解できる。良いことだと思う。
 レストランの入口にはシーサーが飾られてあった。ちゃんと阿吽している一対のシーサーである。もっとも、大理石でできているところをみると沖縄製では無く、中国か台湾製なのであろう。それでもまあ、「地元と仲良くしようぜ」という気分は伝わる。そう、仲良くしましょうね。お互い争うことは無いようにしましょうね、と私も思う。

 私は平和が大好物である。そして今、沖縄は概ね平和であると思う。平和であり続けるために、今沖縄にある基地の機能、基地で働く人々の生活、基地がフェンスの外へ及ぼす影響などをちゃんと知っておかなければと思う。できれば、兵士たちの気分も知りたいと思う。でもなあ、英語できないからなあ、それは無理かなあ。
 沖縄の中にアメリカがあり、少なくとも今は、そのアメリカは平和である。でも、ここからアフガンやイラクに向かう人々がいる。彼らの傍にはいつも戦争があるようだ。「傍にはいつも戦争がある」気分って、きついんだろうなって想像する。
 「綱紀粛正でアメリカ軍人軍属による犯罪は復帰前に比べ減った」と書いたが、それでもなお、年間100件前後の事件が起こっているらしい。「相互理解が平和の道」とも書いたが、理解しあえない人は、基地の中にも100人前後はいるというわけだ。それでもなお、理解しあう努力は必要であろう。たぶん長い道、コツコツだ。
 平和の道は基地反対だけでは難しいと思う。どうすれば基地を必要としない世界が構築できるか、も考えなければと思う。いつかその答えが見つかるよう人類の叡智に期待したい。沖縄はこれから先もずっと、戦争は嫌いである。
     

 注1、その日、レストランの中外の写真を多く撮った。写真を撮ることはフリーであるが、その写真をHP載せていいかどうかは聞いていない。で、紹介は1枚だけ。
 注2、飲んで、平気で運転する人は今でも多い。飲酒運転の検挙者は人口比率だと沖縄が断トツの日本一らしい。その罰金額は年間20億円になるとのこと。

 記:ガジ丸 2007.1.27 →沖縄の生活目次


個人は友達、集団は敵

2010年12月18日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 私の父は民政府(米国民政府:詳細は後述)に勤めていた。たまに、基地の中へ連れて行ってくれた。行き交うアメリカ人たちと「ハーイ」などと挨拶をしながら、おそらく「君の息子か?」と訊かれたり、「そうだ、今日は休みなので連れてきた。」などと言葉を交わしたのであろう。私の基地での目的はレストラン。アメリカ人が食うハンバーガーやホットドッグなどを父は食わしてくれた。美味しかった。満足だった。
 アメリカ人たちは皆優しかった。父はアメリカ人の同僚を家に招待することもあった。彼らもまた優しかった。アメリカ人はウチナーンチュと何ら変わらない人間であった。一人一人個人として付き合えば彼らとは友達になれるのであった。しかし、米軍という集団になると彼らは敵になる。私は争いごとを好まぬ軟弱人間なので、ウチナーンチュの人権を守るために基地撤去を訴える人々の運動に参加したことは無い。無いが、米軍と基地が原因で起きる理不尽な事件については大いに憤慨する。個人のアメリカ人は友人として、ずっと沖縄にいて欲しいと思うのだが、集団としての基地は、やはり要らないと思う。
     

 米国民政府
 琉球列島米国民政府(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)との正式名称があり、ウチナーンチュは「民政府」とか「ユースカー(USCAR)」とか言っていた。Civilはシビリアンコントロールのシビル、「(軍のでは無く)民間の」という意味、Administrationは「統治、行政」とかいった意味。で、民政府となる。
 沖縄は、終戦からしばらくは軍の占領下にあり、軍政府に統治されていた。長期の統治を考慮して、原住民であるウチナーンチュともある程度うまくやらなければならないと判断して、1950年から民政府となる。民といってもウチナーンチュは関係ない。アメリカの民であって、それも建前だけ。全ては軍の機能の円滑な運用が優先された。
  民政府の最高権力者は高等弁務官という。広辞苑には「植民地・占領地に派遣された最高施政官。」とある。確認はしていないが、歴代の高等弁務官は皆、4軍司令官なども兼務する軍人であったと思う。彼、及び民政府には強大な権力が与えられ、政治でも司法でも社会でもウチナーンチュは民政府と米軍に虐げられたのであった。
 復帰とともに民政府は消える。ようやくウチナーンチュによるウチナーンチュの沖縄が始まる。・・・はずであったが、日本国及び米国政府の策略により基地は残された。今でも当時ほどでは無いが軍の名の下に不平等が続いている。
 民政府はウチナーンチュも多く採用した。採用されると、それは政府の役人であり、一般人に比べると偉いのであった。給料も高かった。憧れの職場であったらしい。

 記:ガジ丸 2005.7.20 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


キャンプ・シュワブ

2010年12月18日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 先週金曜日に出た現場は名護市辺野古にあった。首里からだと高速を使っても1時間半はかかる場所。現場は、カヌチャリゾートという大きなリゾートホテルの敷地内にあり、社長の話では「ある有名芸能人の別荘」ということであったが、「誰ですか?」という質問に、元々秘密主義者である社長はニヤニヤ笑って答えない。
 後日、一緒に行った同僚から有名芸能人が誰であるかを聞いた。彼は、守衛の人や、他の業者の人から聞いたらしい。別に秘密にするほどのことでもないのである。有名芸能人とは、所ジョージであるらしい。ゴルフの練習場もある広大な敷地に、ゲストハウスもある大きな別荘であった。さすが一流芸能人だと思った。

 そこで作業をしているとき、遠くからアジテーションが聞こえてきた。アジテーションは人を替えて何時間も続いた。名護市で選挙でもあるのかと最初は思ったが、しばらくすると軍歌が聞こえてきて、右翼のアジテーションも聞こえてきた。そういえば、さっきのは市民団体みたいだったな、何かあったのかいなと思いつつ、その日の作業を終え、家に帰って、テレビのニュースを見る。長く続いたアジテーションのわけが判った。
  カヌチャリゾートのちょっと手前に、大きなアメリカ軍基地がある。日本国の片隅の、沖縄県のそのまた片隅にある名護市辺野古ではあるが、そのアメリカ軍基地は近年、ごく有名になって、基地問題に少しでも関心がある人なら誰でも知っている名前。
 キャンプ・シュワブは、前にガジ丸通信に書いたが、アメリカと日本の関係者が、南西諸島しか載っていない「小さな地図」を広げて、普天間基地の移設先に決めた基地。昔から平和を愛する人民であり、周辺諸国にもそう認識され、「武器の無い国」と驚きでもってヨーロッパ諸国にも紹介されたこの島が、人殺しのための手助けをしているのである。心情を言えば、何ともやってられないのである。その日、多くの心ある人々が、海上に出て、基地移設反対の運動をしたとのことであった。
     

 記:ガジ丸 2005.12.26 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行