今年の沖縄は梅雨入りが2週間遅れて、梅雨明けが10日ほど早かった。梅雨入りの平年値は5月8日頃、梅雨明けの平年値は6月23日頃、今年はだから、梅雨の期間が平年の半分しか無かったことになる。観測史上3番目の短さとのこと。
短い梅雨が明けたのは17日の火曜日、それから数日間、熱帯夜が続いた。那覇市の最低気温は26度から27度だった。西日がガンガン照り付け、クーラーの無い私の部屋はもちろん、もっとずっと暑い。今年は特別暑いのだが、例年だと、梅雨が明けて7月初旬までは、沖縄もまだ、“非常に”とか“死ぬほど”とかの付く本格的な夏では無い。
旧暦4月から5月(今年は5月5日が旧暦4月1日、7月2日が旧暦5月末日)頃のことを沖縄では若夏と言う。夏がまだ本格的では無いということだ。若夏の終わる頃は梅雨が明けて、ギラギラの太陽がガンガン照り付けるが、風があるので、日陰にいれば気持ち良く過ごせる。そしてその通り、土曜日からは例年のような過ごしやすい夜となった。
63年前の若夏の終わる頃、梅雨明けの平年値である6月23日に、沖縄戦での日本軍による組織的戦闘が終わった。ということを私は子供の頃から聞かされ、知っている。ウチナーンチュの多くが、殺されるという恐怖から開放され、生きていけるかもしれないという希望を抱いた日、6月23日は慰霊の日とされ、沖縄の終戦記念日となっている。
63年前の若夏の終わる頃をもう少し知りたいと思って、今回、久々に読書をした。沖縄戦を記録した写真集2冊に目を通し、沖縄戦に関する資料2冊を読んだ。
知らないことが多くあった。組織的戦闘が終わってから捕虜となる人々が出てきたのだろうと思っていたが、沖縄島南部で激しい戦闘が続いていた頃、中北部や離島では既に戦闘はほぼ終わっていた。アメリカ軍が沖縄本島に上陸した4月1日から中北部では捕虜になる人々が多くいたようで、4月中に、あちらこちらに収容所が設けられている。
アメリカ軍が慶良間諸島を占拠したのは3月26 日のことで、沖縄本島読谷、嘉手納に上陸したのは4月1日のこと。そこから北と南に分かれて進軍するが、日本軍の本体は南部にあり、沖縄本島中北部では、上陸地近辺での戦闘、飛行場のあった伊江島での、島民の三分の二が戦死するという悲惨な戦闘以外、大きな抵抗は無かったようだ。
ところが、日本軍の監視の厳しい南部では、住民も簡単には捕虜になることができなかった。ウチナーンチュにとっては、アメリカ軍だけで無く、日本軍もまた恐怖の対象であった。日本軍は住民を盾にして、住民に犠牲を強いたようである。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれた電文が、6月6日に本土の海軍次官充てに送られた。送ったのは沖縄特根司令官の大田実。
「沖縄県民は一所懸命、身を犠牲にして軍に協力した。そして今、沖縄と沖縄県民はたいへん悲惨な状態にある。だから、後世、沖縄県民には特別な配慮をお願いします。」といった内容。軍の司令官にも沖縄の悲惨を憂える人がいたのだ。最後の「特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」に、いかに悲惨であったかを想像させられ、胸が痛む。
沖縄戦が、戦争終結の際に少しでも有利な条件を得るための時間稼ぎだったということも中学か高校の頃に聞かされている。あまりにも悲惨な時間稼ぎである。
記:ガジ丸 2008.6.21 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行