ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

血の絆『まぶいぐみ』

2018年12月28日 | 通信-音楽・映画

 12月も下旬になろうとしているのに「暑い日」と書かねばばらない12月19日、いつもの桜坂劇場に映画を観に行った。最近何かの大きな賞を貰ったという作品の、それを記念してのリバイバル上映らしい。観た映画は『まぶいぐみ』。
 その前に友人Kの家を訪ね、パソコンに詳しい彼に最近壊れた私のパソコンの話、携帯電話にも詳しい彼にガラケーからスマホへ替えるのは止そうかと思っている話などする。彼の家は私の実家からすぐ近く。近辺の景色は見慣れた懐かしい景色。母が11年前、父が8年前に亡くなって住む人のいなくなった実家、2014年2月には他人のものになってしまった実家とその周りの風景を思い出し、ちょっと感傷的気分になる。

 感傷的気分を振り払って映画館、ちょうど良い時間に着いて、トイレ行って用を足し、館内へ入って席を見つけ、そこへ座ろうとしている時にブザーが鳴り暗くなった。
 映画はドキュメンタリーで、「世界のウチナーンチュ大会」という5年に1度の行事を明るい表舞台として、移民として世界に散らばったウチナーンチュの歴史を描く。サブタイトルに「ニューカレドニア引き裂かれた移民史」とあるように、ニューカレドニアに移民として渡ったウチナーンチュと、その子孫である2世、3世たちがメインの登場人物。映画が始まって数分後、「あっ、しまった、この映画、前に観たかも」と気付く。登場人物の多くに見覚えがあり、ニューカレドニアの景色にも見覚えがあった。
 家に帰って日記を調べる。2017年8月10日に同映画を私は観ていた。ただ、「良い映画だった」と書いてはいるが映画に対する詳しい感想は無い、別項で書いた形跡もない、このブログで映画の感想はいくつも書いているが、『まぶいぐみ』については何も書いていない。「何故か?」はたぶん、その日の日記の記述の多くを占めていたのが別にあったから。映画の帰り、その日初めて、動けなくなるほどの腰痛を私は経験していた。
 
 私の腰痛はおいといて、映画『まぶいぐみ』は、血の絆というものを強く感じさせるものであった。マブイグミという言葉自体は「血の絆」とは関係ない。マブイは魂のこと。グミはクミの濁音化したもので「込み」の沖縄語発音。「魂込め」という意になる。
 何かとても恐ろしい思いをして、酷い衝撃を受けて、心ここにあらず状態になった時などに「魂を落とした」と沖縄では言う。そして、「魂を拾いに行こう」となり、魂を落としたと思われる場所へ行き「マブヤー、マブヤー・・・」と呪文を唱え魂を失ったと思われる者に魂を込める。私も子供の頃、何度かマブイグミをやって貰ったことがある。
 サブタイトルにある「引き裂かれた」は、太平洋戦争によって家族が「引き裂かれた」ことを言っている。移民の沖縄男性は現地の女性と結婚し、家族をつくったが、敵国民ということで強制収容され家族と引き裂かれる。それで、父を知らない2世、3世が育ち、彼らはルーツを失ったまま大人となり、親となり、「私は何者?」と問うことになり、ルーツが解らないということを「魂を失った」ということに譬えたのだと思われる。
     

 映画『まぶいぐみ』を観てから4日後、12月23日、平成天皇最後の天皇誕生日、今上天皇のお言葉をラジオから聞いた。戦争に触れ、沖縄のことにも言及した。天皇のこれまでの言動でも感じていたことだが、平和を切望している人だなぁと思った。
     

 記:2018.12.27 島乃ガジ丸


そこにいるもの『岡本太郎の沖縄』

2018年11月01日 | 通信-音楽・映画

 2ヶ月ほど前、高校の同級生だったT男から電話があった。「クラス会の写真があればどうのこうの」といった内容。高校を卒業して長く無かったクラス会が、15、6年前からたびたび開かれていた。その頃、私もカメラを持っていてクラス会のスナップ写真をいくつも撮っていた。Tはそれを知っていて私にその旨の電話をしたようであった。
 ということで、パソコンに収めてある写真の、クラス会(高一)の写真を探し出し、それを年代別に分け整理する作業を始めた。そのついでに、中学時代以前、中学時代、高校時代、大学時代、その後の写真も整理し、フォルダを分けてパソコンに収める。その作業がほぼ終わりかけた時、なんとまあ、そのパソコンが壊れてしまった。
 10月29日の朝、同じく高一の同級生であるT子から電話がある。2ヶ月ほど前のT男と同じ「クラス会の写真があれば」という内容。写真を集めて何かやるらしい。

 10月29日、その日私は映画を観に行く予定であった。映画は午後2時から、午前中は頼まれ仕事の庭掃除でもして、昼飯食って、そのあとに家を出ても十分間に合う。そう予定を立てていたらT子からの電話。私が「午後、桜坂へ映画を観に行く」と言うと、彼女も午後、だいたい同じ時刻に桜坂にいると言う。で、映画後、会うことになる。
 会うとなれば、写真を整理してUSBメモリーに入れて持っていかなければならない。繰り返しになるが、ほぼ終わりかけていた写真整理が、その4日前にパソコンが壊れてしまい、せっかく整理していた写真がパーになっていた。ということで、午前中は整理されてない元の写真を外付けハードなどから探し出し、改めて整理する作業となる。そんなこんなでアタフタしたが、映画には間に合った。T子にも会え、データも渡せた。
     

 さて、その日観た映画は『岡本太郎の沖縄』。私は沖縄に生まれ育ったので沖縄が好きであり興味を持っている。岡本太郎が沖縄の何に惹かれ、沖縄の何を観ていたのか、岡本太郎が感じた私の知らない沖縄がそこにあるのではないかと大いに興味があった。
 チケット売り場には多くの人が並んでいた。売り場の係の人に「補助席になりますけどよろしですか?」と訊かれた。「補助席?」、「ほぼ満席なんです」とのこと。桜坂劇場が満席なんて滅多にないこと。中へ入ると、折り畳み椅子が両サイドにあって、その椅子もほぼ埋まっていたが、最前列の席が空いていて、私はそこへ座ることができた。
 映画が始まってすぐから終わるまでのほぼずっと、涙腺の緩んでしまっているオッサンはナダ(涙)ウルウルーしていた。「何で?」と訊かれてもはっきりした認識はないが、その辺の恋愛映画などよりずっと大きな愛をこの映画に感じたからかもしれない。

 愛とは別にもう1つ感じたことがある。愛は心が感じたが、もう1つは体が感じた。それは何かというと頭痛。映画の後半辺りから頭痛がした。映画を観て頭痛、ということはこれまでになかったこと。映画はたいていその世界に没頭するので、歯痛も腰痛も感じなくなることが多いのに、この時は涙を抑えることと共に頭痛も気になった。
 「何だ、この頭痛、脳梗塞か?」と考えていたら思い出した。「こんな頭痛、これまでに何度か経験しているぞ、そうだ、あれだ、悪い霊がいると噂されている場所へ行った時などに襲われた頭痛だ」と思い出す。腰痛で気力の弱っている今、映画のそういった場面で、見えないけどそこにいるものを感じたのかもしれない。などといった寒気のする話は置いといて、映画『岡本太郎の沖縄』、愛を感じる良い映画であった。
     

 記:2018.11.2 島乃ガジ丸


返還交渉人

2018年08月10日 | 通信-音楽・映画

 もう2週間も前から観たいと思っていた映画があった。今、歯科医通いをしていて、歯科医は1日から3日にかけてと6日から8日にかけて通い、その間、映画へ行けなかったが、ところが、9日木曜日は予約一杯とのことで通わなくても済むようになる。桜坂劇場のスケジュール表を見ると、観たい映画、来週からは夜の上映となっている。夜に車を運転するのは嫌なので、「映画観るのは木曜日(9日)しかないか」となる。
 観たい映画は私の大好きな映画館桜坂劇場でやっている。桜坂劇場は那覇市のメインストリート国際通りの近くにある。国際通り近辺はいつも観光客で賑やかだが、車も多いので道も混む。夕方は通勤等でさらに混む。なので、夕方の国際通りは避けていたが、映画は午後2時半の開始、帰りが夕方となる時間になる、でも決行。じつは、都合の良いことにその日その時間、夏の高校野球で県代表興南高校の試合があった。ウチナーンチュは野球大好きで試合があると外に出ない。よって、道は混まない。ラッキー。

 観た映画は『返還交渉人』、沖縄の本土復帰に関わる日本とアメリカの交渉で、沖縄のために有利な(というか、人間として当然の)条件を得ようと奔走する外交官の話。
 沖縄が返還されるための条件交渉の中で、日本国は日本国の有利を考え、アメリカはアメリカの有利を考え、双方が落とし所を模索する。その落とし所というのが「沖縄に犠牲になってもらう」というもの。そんな中、主人公は己が正しいと信じる道を真っ直ぐ突き進む。彼が信じる道は、ウチナーンチュ(沖縄人)の多くが望んでいた道。
 その道はしかし、竹槍で戦車に挑むがごときの道であった。それでも立ち向かおうとする主人公、しかし、相手はあまりにも強大で、結果として無力感、挫折感を味わうことになる。でも、その精一杯の努力に私は感動してしまった。老いて涙脆くなった、加えて、腰痛で気弱になっている私には毒に(涙が出るという意で)なる物語だった。
     

 物語は沖縄の本土復帰(1972年)以前の数年間が舞台。ベトナム戦争の頃、アメリカ兵がピリピリしていた頃、基地被害の多かった頃。その頃から比べると沖縄も落ち着いているが、復帰から46年経た今もまだ、主人公の望んでいた沖縄にはなっていないと思われる。少なくとも、日本国によって米軍基地は沖縄に押しつけられている。
 映画を観た前日8月8日の夜、翁長沖縄県知事が亡くなった。映画の主人公と翁長知事の生き様が重なった。「辺野古に基地は造らせない」は、私も正しい道だと思う。
 「辺野古移設が唯一の解決策」と国は言うけど、「何で辺野古が唯一なの?他の方法は考えたの?考えたのならどんな方法を模索したのか明示して欲しいんだけど」と私は思っていた。それもこの映画を観て、何故そうなったか想像できるようになった。日本国は日本国の都合を、アメリカはアメリカの都合を考え、その落とし所を探った結果、沖縄を犠牲にすることが唯一の解決策となったのであろう。もちろんその落とし所は、沖縄にとっては何の解決にもなっておらず、この先、新たな問題を抱えるだけのこと。
     
 『返還交渉人』、本土復帰前の沖縄を思い出し、「今はどうなんだ?」と現在の沖縄までも想い、あれこれ考えさせられる良い映画でした。ただ、もう少し感情を抑えて、淡々と控え目の表現でも良かったのではないかと、涙脆くなったオッサンは思った。

 記:2018.8.10 島乃ガジ丸


憧れの爺さん『モリのいる場所』

2018年07月20日 | 通信-音楽・映画

 熊谷守一を題材とした映画があると聞いたのは3ヶ月ほども前だったか、それが桜坂劇場で上映されると聞いて喜んだのは2ヶ月ほども前だったか、6月30日から上映されると聞いて、7月の第一週には早速観に行こう決めた。土日は混む、映画館がではなく道が混むので土日祝祭日は避け、傘を差すのが面倒なので雨の日も避ける。
 7月第一週の平日はずっと雨、第二週の9日~11日は台風接近のためその台風対策や台風後の後片付けなどあって、12日~13日は台風対策で動いたせいか腰痛が酷くて映画は断念。第三週の18日になってやっと映画を観に行く機会を得た。

 映画館で映画を観るのは久しぶり。3月28日に見て以来だから約4ヶ月ぶり、その前は去年9月19日だった。月に1回は映画館に通っていた映画少年も今は年取って、体にも心にも元気が無くなってしまったようだ。お出かけが面倒となっている。
 しかも、腰痛を患って以来、映画を観ることが少々怖くなっている。同じ姿勢を長く続けると腰への負担が大きく、腰痛が悪化するということを経験で知っている。それでもなお、今回映画を観に行った。「ぜひ観たい」という気持ちが強かった。
 観た映画は『モリのいる場所』、題材となっている熊谷守一は私の大好きな画家。その存在を知ったのはせいぜい15~6年前だと記憶しているが、知って、その作品(実物ではない、画集か何か)を観て、すぐにファンになった。「こんな絵が描けたらいいなぁ」と思った。守一の「下手も絵の内」という言葉には元気付けられた。
     

 主演の老夫婦を演じている2人は名優で、妻役の樹木希林は元々好きな女優で、守一役の山崎努は渋い深みのある役者だと認識していたので、彼らについての感想はただ「感服しました」としか言いようがない。ただ、山崎努演じる熊谷守一は私の想像するものとは少し違っていた。山崎努の目には物事を洞察する力と知恵の光があるように感じた。私の想像する熊谷守一は、何でも許してくれそうな柔らかい目をしている人。
 「柔らかい目をしている人」を私の脳に残っている記憶から探してみる。笠智衆、加藤嘉、宇野重吉の、昭和を代表する名優の顔が浮かび出た。
 笠智衆は小津安二郎の映画や『男はつらいよ』で有名。加藤嘉は映画『砂の器』でよく覚えている。その映画では悲運な父親役であったが、その後、テレビドラマなどで見る加藤嘉は笑顔に優しさが溢れる老人という印象が強い。宇野重吉は、出演している映画、あるいはテレビドラマは思い出せないが、テレビコマーシャルの和尚さん役が私の脳に記憶として強く残っている。「カンラ、カンラ」と明るく笑う和尚さん。そのテレビコマーシャルが日本酒の松竹梅で、石原裕次郎が共演だったことも覚えている。

 映画を観終わって、車を運転している間ずっと、熊谷守一、笠智衆、加藤嘉、宇野重吉の顔が頭の中をぐるぐる回っていた。終いには「あー」と溜息が出た。
 「あんな爺さんになれたらいいなぁ」と思い、「これまであんな爺さんになれるような修業をしてこなかったから無理だろうなぁ」と思い、「早く死んでしまえば良いのにと周りから思われるような淋しい爺さんなるだろうなぁ」とまで想像して、「あっ」と気付いた、「俺は父に対しそんな態度ではなかったか」と。そう気付いて溜息。
     

 記:2018.7.19 島乃ガジ丸


弱き人々を救う映画『あん』

2018年05月24日 | 通信-音楽・映画

 約30年前、それまで籐家具を製作していたが、廃業して空き家になっていた建物があり、そこを「管理する」ことを条件に只で借りて、趣味の木工をやっていた。籐家具製作所だったので、木工機械がいくつもあり、木工をやるには好都合であった。
 建物の持ち主は、正式名称は忘れたが、沖縄県の公益財団法人でハンセン病に関わる施設を運営している団体。籐家具工房もたぶん、そこの管理経営だったと思う。
 その団体の職員の1人が高校の同級生で友人のK、私が木工が好きということを彼は知っていて、建物は「いつか整理処分するけどしばらくは空いている、使わないか?」と勧められて、「渡りに船」と応諾し、1990年前後の1~2年そこを使っていた。
     
 その間に、ハンセン病に関わる施設の関係者とも何度か顔を合わせ、話をしている。元患者であったという人達も多くいた。ハンセン病はライ病という名でも私は知っており、中学生だったか、高校生の頃だったか『ベンハー』というアメリカ映画を観て、ライ病は伝染性があり、患者は差別対象となる病気であったことを知っていた。しかし、
 「ハンセン病は危険な伝染病では無い」と、友人Kから教わっていたので、元患者の人達と会話したり、肌が触れ合ったりしても、さほど嫌だという感情は持たなかった。Kからは他にも、昔はライ病が差別対象の病気であり、、日本でもライ患者は差別され、沖縄には沖縄島の北部、屋我地島に患者の隔離施設があるということなどを教わる。だけど、もうその頃、1990年頃は、友人Kが言う通り「ハンセン病は危険な伝染病では無い」と認知されて・・・いたのか?・・・今、ネットで調べたら「らい予防法」が廃止されたのは1996年とのこと。まだ、20年少ししか経っていないのかとビックリ。

 最近、ハンセン病患者が不妊手術を強制されていたというニュースを聞いた。病気に対する偏見が酷かった頃の話なんだろうなと、さほど深くは考えなかったのだが、それとは全く関係無く、私は1枚のDVDを図書館から借りていた。DVDは映画『あん』。
 『あん』がハンセン病に対する偏見差別を題材にしていることは全く知らなかった。私がそのDVDを手に取ったのはその表紙に惹かれたから、表紙には樹木希林が大きく写っていて、彼女が主役らしかったから。彼女に私は魅力を感じていたから。
 映画にはキャッチコピーがあった。「やり残したことは、ありませんか?」と。それを見て、「老婆が人生の仕上げに挑む映画かな?黒澤明の『生きる』みたいなものかな?」と思いつつ観る。観終わって、私は心暖かくなり、とても満足。良い作品でした。

 映画『あん』はハンセン病が関わる物語で、今(映画の時代は現代、せいぜい10年ほど前か?)でもなお、ハンセン病に対する差別意識が残っているのかと感想を持つが、それは、私にとってはさほど強い思いではなく、「朝鮮人というだけで差別意識を持つ人もいるんだから、そういう人もいるんだろう」程度の思い。私がこの作品で強く心に残ったのは、樹木希林演じる吉井徳江のセリフ、映画の最後の方に出て来るセリフ。
 「私達はこの世を観るために聴くために生まれてきた。だとすれば何かになれなくても私達には生きる意味がある。」、これを聞いた時、不覚にも涙ウルウルした。
 「観るために聴くために」は「感じるために」に替えても良いと思う。「生まれてきたんだから生きる意味がある」となる。多くの弱き人々を救う言葉だと思う。
     

 記:2018.5.24 島乃ガジ丸