愛(?)車の12ヶ月点検の期日となって、前に車検をしてもらった自動車整備工場、今年2月まで私の住まいだった家から徒歩1分の場所にある工場へ「時間はどれくらい、代金はどれくらいかかるか?」を訊きにいった。すると、そこの社長は「12ヶ月点検は法律で定められたものでは無いのでやらなくてもいいですよ」と言う。その社長、見た目もイイ感じの人だが、商売っ気のない人である。その爽やかさに惚れて、また、「でも、オイル交換はした方がいいですね」との助言もあったので、オイル交換のついでに、やらなくてもいいという12ヶ月点検をも頼むことにした。しかし、
「点検には3時間ほど要するが、3月は忙しい時期なので、代車は提供できないかもしれない」と社長は言う。ということで、その3時間をどうするか考えた。現住まいの宜野湾からより、その自動車整備工場から那覇へ行く方がずっと近いし、早いし、バスの便もいい。ということで、「那覇へ行って用事を済ませよう」と決める。
那覇に「後で後で」と延期し続けていた用事がいくつかある。移転の為3月末には閉館するという沖縄県立図書館へ行くこと。桜坂劇場へファンクラブ会員の住所変更をすること。用事は他にもあったが、図書館と桜坂は徒歩圏内なので、先ずはその2件を済ませることにした。図書館での用事を済ませ桜坂劇場へ着くと、ちょうど1本の映画が始まろうとしている時間であった。特に観たいと思っていた映画ではないので少し悩んだが、せっかくここまで来たんだからと観ることにした。
観た映画は『素敵なダイナマイトスキャンダル』(長いので以降は『素敵な・・・』と略する)。久々に心に深く響いた映画だった。
映画は一見エロ映画。女性の裸が一杯出てくる。おっぱいがいっぱい、下半身の毛も出てくる、あの時のよがり声も多く聞こえてくる。「18禁の映画か?」と最初は思ったのだが、話が進んで行くうちにエロ映画というだけでは無いということに気付く。
映画で描かれているのは欲望と理想の中で弾けたり悩んだりする青春。時代は学生運動が終焉に近付く1970年代から80年代にかけての頃。エロ映画に見えるのは主人公がそういった関係の仕事をしているから。その頃流行っていたピンクサロンとかノーパン喫茶とか、そして、その頃流行っていたエロ雑誌の編集という仕事。
時代の流れの中で「生きる」ために足掻いている人々がいる。主人公もその1人。主人公はしかし、その中でも成功者である。デザイナーとして成功し、雑誌の編集者として成功している。ただ、私には主人公が薄氷の上で動き回る人に見えた。
主人公の母親は彼が子供の頃に「不倫相手とダイナマイトで心中」というスキャンダルを起こし、夫と子供に深い傷を負わせている。その傷は主人公のその後に大きなマイナスの影響を与えていると思われる。深い傷を負いながら時代の中でもがく。少し足を踏み外したら奈落の底へ落ちてしまうような不安感を、主人公の生き様を見て私は感じた。
その不安感は何だろう?と考えてみた。「愛されていない」という不安か?主人公は父親とも折り合いが悪い。母からも父からも愛情を感じずに育ち、それが大人になってからの感性の爆発となり、観ている者に「危なっかしい」と感じさせるのではないか。『素敵な・・・』はエロが一杯だが、私にはそんな不安を感じさせる作品であった。
記:2018.4.6 島乃ガジ丸
私は孤独癖がある、ってことを若い頃から自身で認識していた。「一人が好き」ということについてはつい最近、このガジ丸通信に書いた記憶がある。調べると、「つい最近」ではなかった。2015年7月だからもう2年と8ヶ月も前だ。あーなんて、時の流れの早いことよ。もう2018年になってしまい、2018年も早や3月、3月も半ばになってしまった。冥土の旅の一里塚が高速で次々と過ぎていく。
なんて、オッサンの嘆きは置いといて、その2015年7月31日付の記事はタイトルが『孤独自然死』で、当時話題になっていた孤独遺伝子を取りあげ、「人間には孤独になりたがる遺伝子を持つ人と持たない人がいるとのことであった。「これだぜ俺は!」と思った。私はきっと、間違いなく孤独遺伝子を持っている」と私は書いている。
孤独遺伝子を持っている私は独善的である。他人から褒められたいという気持ちはあるけど、「自分が良いと思えばいい」ということを優先している。また、他人から褒められる程の才能も無いので、例えば、私が表現するもの(絵とか作文とか)も他人の共感を呼ばないようである。何年か前に友人の、沖縄では名のあるミュージシャンであるTに私の作詞作曲作品を「こんなのいかが?」と聴いて貰った。彼は少し聴いた後、作品の評価をせず、首を横に振っただけであった。「やはりそうか」と私も納得した。
私はたぶん、多くの人の共感を求めていない。「自分の好きなようにしたい、好きなように表現したい」という気分が強いのだと思う。「他人の評価など気にしない」という傲慢さと、「分かる人には分かるさ」という上から目線の成せる技だと思う。「分かる人には分かるさ」なんて自信を持つような根拠は何も無いのにさ。
根拠のない自信から来る「分かる人には分かるさ」はもちろん、「我が道を行く」といった信念に基づくものでは全然無い。私の場合は、よーく考えると、他人の感性に気を使うのが面倒だからという理由が大きいと思う。ちっともカッコ良くない。
前述した「沖縄では名のあるミュージシャンである」Tは、7年間も癌と闘い続け、去年(2017年)12月に他界した。彼の告別式に参列して、会場に飾られていた生前の彼の写真を見るに、たくさんの仲間に囲まれ今にも壊れそうな笑顔を見せている彼の姿を見るに、「あー、この人は共感の喜びを大切にしていた人なんだ」と感想を持った。
その時頭に浮かんだ「共感の喜び」という言葉に、「あー、それだぜ、俺に足りないのはそれに違いない」と、自身を省みるきっかけとなり、そして、少し反省した結果、「私は孤独癖がある」について疑問を持つようになった。2017年の年末から年始にかけて友人知人と会う機会が多く、彼らに心癒されているということを感じて、私は孤独が好きなのではなくて、他人に気分を合わせるのが嫌いな我儘者なんだと気付いた。
他人と共感することが嫌いというわけではない。共感する喜びを知らないというわけでもない。若い頃、フォークソングが好きで、中でも高田渡とか友部正人に感動し、同じく彼らを好んでいる人達に出会って、「同士だぜ」と思ったことを思い出す。
しかし、面倒臭がり屋の我儘者は、その後、オジサンと呼ばれる年齢になってからは共感の喜びをあまり得ていない。オジサンとなってから、さらに我儘者になったのだと思われる。いや、現場仕事で工事を完成させた時は仲間と喜び合ったな。懐かしあの頃。
記:2018.3.16 島乃ガジ丸
畑仕事が全然間に合っていないので、休んでいる余裕はないのだが9月19日映画を観に行った。休んでいる余裕はないのに何故映画?かというと、手元に映画の只券が2枚あって、その期限が迫っていたからという理由による。いや、それよりもっと大きな理由がある。「観たい映画があった」という理由。観たい映画は『・・・カメジロー』。
その日はしかし、映画『・・・カメジロー』の前にもう1本観た。特に観たいと思った映画ではなく、『・・・カメジロー』が始まる時間の少し前には終わるからという理由だけで選んだ『ボブという名の猫』、そういう理由で選んだので、その映画に関する感想は特にない。「麻薬中毒になったら立ち直るのに大変なんだなぁ」といった程度。
何故、1日に2本も映画を観たか?については、那覇(桜坂劇場がある)に出掛けるのが面倒で、映画の只券2枚は1日で使ってしまおうと思ったから。
さて、本命の『・・・カメジロー』、正確に書くと『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』という題、「米軍」には「アメリカ」と振り仮名がふってある。
『ボブという名の猫』を観終わってエントランスホールに出ると、人がたくさんいる。チケットを買う客がずらっと並んで映画館の外にまで続いている。そして、『・・・カメジロー』を上映する、桜坂劇場では最も大きなホールA(2階にある)へ上がる階段に人がたくさん並んでいる。当初、火曜日(18日)に観に行く予定を立てていたが、『・・・カメジロー』は人気があると噂に聞いていたので、翌日に順延とした。平日でも並ぶほどの客がいる。並んでいる人々を見て気付いた。「あっそうか、カメジローを知っている人は私より年上の人達、既にリタイヤした人達だ、平日も休日も関係無いんだ」と。
『ボブという名の猫』が終わって『・・・カメジロー』が始まるまでには20分ほどの時間差があって、その間に、近くの公園で一服する予定だったが、それは中止。チケットを買うのに並んで、ホールに入るまでも並んで、ホールAの中へ入る。客はそれでも七分の入り。七分はしかし、桜坂としては珍しい大入り。
ホールAの入口にチケット確認する係員がいた。若くて美人だ、ということで私は声を掛ける。「今日は平日だから空いているかと思ったら混んでますね」と。
「はい、お陰さまでありがとうございます。」と彼女は言って、中へ入る私の後に付いてきて、七分入りの中を見回した後、「でも、今日はまだ少ない方です。休日は満席になります。昨日までの連休も満席でした。」とのことであった。
『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』のカメジローは瀬長亀次郎のこと。戦後から沖縄の日本復帰前後にかけて活躍した沖縄の政治家。瀬長亀次郎に私がキャッチフレーズを付けるとしたら「ウチナーンチュが最も愛した政治家」となる。
「ウチナーンチュが最も愛した政治家」は、亡くなってから15年も経っているだろうか、今でもまだ人気は衰えないようである。入場者数は既に1万人を超えたとのこと。この先10月、11月、あるいは12月までのロングランを予定しているとのこと。ウチナーンチュの人権を守るために不屈の闘志で、非暴力の闘いを続けた政治家。そんなカメジロー(私の祖母は亀さんと呼んでいた)が今でも愛されている。それに私は大いに感動した。もちろん、何度も目頭が熱くなったほど映画にも私は感動し、大満足した。
記:2017.9.22 島乃ガジ丸
先週のガジ丸通信『国のインチキ』の続き、
西原町立図書館から借りたDVD『はだしのゲン』を、8月6日にその前編、8日に後編を観ての感想。DVD『はだしのゲン』は2007年8月に放送されたフジテレビのドラマで、前後編合わせて約3時間半の間、私は何度も、たぶん、10回以上はナダ(涙)ウルウルさせていた。悲しみの涙ではなく感動の涙。歳取って涙腺は緩んでいるが、歳取って感受性も鈍っているのでナダソーソーまでには至らなかった。
ただ、ナダウルウルも久々だったので、「ドラマにも良いものがあるんだなぁ」と前編を観終わった時に思った。テレビを家から追い出したのはもう6年以上前だが、それ以前から私はテレビを集中して観ることは少なかった。夜のニュース番組は注視することもあったが、朝の「めざましテレビ」や昼の「笑っていとも」を時計代わりに見ていた程度、ドラマは集中して観ないと意味が判らないので長いこと・・・私が最後に集中して観ていたテレビドラマは確か『ちゅらさん』だ。調べたら2001年の放送だった。
さてさて、個人的感傷に浸ってしまったが、ドラマ『はだしのゲン』のどんなところで私はナダウルウルさせたのかというと、先ずは主人公ゲンの父親、中井貴一演じる大吉の凛とした姿勢、周りから非国民扱いされても信念を曲げることのない姿勢に涙。
大吉は「戦争はいかん」と公言する、そのため、国のインチキ政策によって洗脳されてしまっている周りの人々から非国民扱いされ、大吉だけでなく家族みんなが様々な迫害を受ける。大吉は警察(憲兵だったかも)に引っ張られ、数日監禁され、そこで殴る蹴るの暴行を受ける。それでも大吉は国のインチキに迎合しない、その姿に涙。
大吉の長女(中学生くらい)が校長室で服を脱がされ校長と担任教師から暴言を浴びせられる。大吉を非国民呼ばわりする筆頭の町内会長、その息子(小学生)の「財布を盗んだのを見た」という讒言によるもの。それを知った大吉が校長室に押しかけ、町内会長の息子を呼ばせ、彼に本当のことを言うように諭す。すると、息子は「父親にそう言うよう命令された」と白状する。大吉は男の子の頭を撫で許し、そのまま振り返って校長と教師を殴る。「あー、カッコいい、サムライだぜ」と、ここでも私はウルウル。
大吉と長女とゲンが学校から家に帰る道の途中、急にゲンが走りだし、止まって、振り向いて「お父さん大好き」と叫ぶ。その後、長女も走りだし、止まって、振り向いて「お父さん大好き」と叫ぶ。ここでまたもウルウル。これが家族の姿だと感激。
大吉を非国民呼ばわりする校長、教師、官憲、町内会長、その他の多くの人々、彼らは当時の多数派であり、おそらく当時の普通だ。国によってそのように洗脳されている。ただ1人、隣家のバクさんだけが「戦争を嫌う大吉さんを尊敬している」と言う。
戦争に反対する大吉のような人を非国民とするのは、謂わば、当時の流行(国の洗脳政策による)だったのかもしれないが、日本国(ここでは政府では無く国土と国民のことを言う)のことを思い、日本国の平和と人々の幸せを願っているという点から見れば、私は大吉こそ正国民だと評価したい。彼こそ正しい日本人であると称えたい。
私ならどうしているかとも想像してみた。自分と家族(いればの話)が迫害を受けることを考えれば、私は大吉になれない。でも、少なくともバクさんではありたい。
記:2017.8.18 島乃ガジ丸
今週日曜日(8月6日)、辺野古新基地建設反対の立場にある宜野湾市民フォーラム木曜会、その主催による第6回市民シンポジウムが行われ、私も参加した。今回は「辺野古工事の深刻な問題点」というタイトルの講演で、講師は奥間政則氏。
「辺野古工事の深刻な問題点」を、私が理解できた限りで言うと、汚濁防止膜に不備があり、このままでは海が汚染されるが、防衛施設局はその指摘を無視したまま工事を続けようとしている。辺野古の埋め立て予定区域は地盤が不安定である、不安定な地盤の上に建設予定の構造物を設置するには設計変更が必要である。辺野古の埋め立て予定区域近辺には断層があり、断層が工事区域内にあると建設はできないが、防衛施設局はその調査をしていない、あるいは、調査をしていてもその結果を公表していない。
などということだが、いずれにせよ、国は工事を何が何でも強行しようとしているように感じられる。国には目論見がある。「来年の名護市長選、及び沖縄県知事選に国寄りの候補者を立て、現市長、現知事に勝って、設計変更の認可を得れば良い」という考え。逆に言えば、現市長、現知事が負けたら、平和運動家たちはお先真っ暗となる。
講師の奥間政則氏の語ったことで講演内容とは別に私の記憶に残っていることがある。奥間氏は一級土木施工管理技士の資格を持ち、沖縄では大手の土木会社で働いていたが、それを辞めて今、辺野古、高江の基地建設反対運動に関わっている。何故?
奥間氏の両親はハンセン病患者で、国策により理不尽な差別を受けていた。そういうこともあって、国に対する不信感があり、反対運動に関わっているとのこと。実際に高江の建設現場では工事のインチキを見て、今回は辺野古基地のインチキを指摘している。
ハンセン病に対する政策のように国は時に間違いを犯す。あるいは、「お国のため」だと言って平民など多少の犠牲を被ってもしょうがないという考えからインチキをする。そのインチキの最たるものが先の大戦。数多くの平民が国のインチキの犠牲となった。
シンポジウムが行われた8月6日、シンポジウムが終わって、畑仕事に戻って、7時過ぎ家に帰ってシャワーを浴びて、無上の幸せであるビールを飲みながら、私は西原町立図書館から借りたDVD『はだしのゲン』を、その前編を収めた1枚を観た。
8月6日は72年前広島に原爆が落とされた日。DVDはその数日前に前編、後編の2枚を借りていたが、観るのは広島を意識して8月6日まで待った。
漫画の『はだしのゲン』を私は知っている。何度か目にして読んだと思う。広島の原爆を題材としている、主人公は小学生の、丸坊主で目が輝いている少年などということは知っているが、しかし、詳しい内容はほとんど知らない。『はだしのゲン』が連載されている頃、私はもう漫画をあまり読まなくなっていた年齢だったと思われる。
『はだしのゲン』のドラマがあることを、西原町立図書館のDVDコーナーを物色している時に私は初めて知った。DVDの表紙には中井貴一が映っている。であれば、そう古くはない。調べると、2007年8月に放送されたフジテレビのドラマだ。
ドラマ『はだしのゲン』を観ても、私は国のインチキを強く感じた。中井貴一演じるゲンの父親は「この戦争は間違っている」とはっきり言う。家族や自分が周りから迫害されてもその信念は曲げない。私は久々にナダ(涙)ウルウルしてしまった。
記:2017.8.11 島乃ガジ丸