ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

海のチンボーラー

2012年08月17日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 私の創作、あまり人気が無いのでアクセスも少なかったサイト『ユクレー島物語』は長いことお休みしている。人気が無いからお休みでは無く、話を考えたり、絵を描いたりするのに時間がかかり、畑を始めるようになってその時間が惜しくなったからだ。
 『ユクレー島物語』には挿入歌なんてのもある。それも私の創作、作詞作曲編曲だ。そして、それもまた1曲完成させるには時間がかかる。話も絵も歌もアイデアはいくつもあるが、どれも仕上げる時間的余裕が無く、2010年1月29日の博士の発明『自信発生装置』という話と絵をアップして以来、ご無沙汰となってしまっている。

 今年(2012年)3月、『ユクレー島物語』には関係無く歌ができた。『今のチンボーラー』という題。その少し前、宜野湾の私の畑の近くに住む平和運動家の爺様Hさん、婆様Zさんと知り合い、彼らの話を聞いている内にできたもの。
 『今のチンボーラー』は、有名な沖縄民謡『海ぬチンボーラー』をもじっている。歌詞の一部を借用してもいるが、歌詞の主旨、メロディーは全く違うもの。

 有名な民謡『海のチンボーラー』、軽快なメロディーで私の好きな民謡の一つ。特に嘉手苅林昌の歌い方はあっさりしていて耳に心地よい。その踊りを何度か見ていて私はてっきり舞踊曲だと思っていたが、沖縄大百科事典に記載があった。それには『海のちんぼうら』と表記され、「沖縄本島で愛唱されている酒盛歌」、「元歌は伊江島の〈前海スィンボーラ〉」、「いつのまにか遊郭でうたわれるようになり、エロチックなものに変化した。」などと説明されている。『正調琉球民謡工工四第二巻』にその歌詞がある。 

 海ぬチンボーラー小(グヮー) 逆なやい立てぃば
 足(ヒサ)ぬ先々(サチザチ) 危なさや

 チンボーラーはニシの一種、ニシとは螺と書き、「巻貝の一群の総称」(広辞苑)のこと。ほら貝の形をしていて、ごく小さな貝。
 ほら貝の形を思い浮かべれば、「逆さに槍立てて」は解ると思う。「チンボーラーが逆さに槍立てて(刃が上向き)いるので、歩く先々が危ないよ」といった意味。
 この後、囃子のような歌詞が続く。

 支度ぬ悪っさや 側なりなり
 サー 浮世(ウチユ)ぬ真ん中
 ジサジサ ジッサイ 島ぬヘイヘイ ヘヘイ

  沖縄語辞典を頼って訳してみると、支度の悪い(準備の遅いという意だと思われる)者は側に退かして(放っておいて)、さぁ、浮世の真ん中へ(遊郭の事だと思われる)といった意味。ジッサイは実際(まったく、ほんとうに)、ヘイは呼びかけ。
 沖縄大百科事典の記事「遊郭でうたわれるようになり、エロチックなものに変化」は、2番以降から何となく匂ってきて、5番では「辻(遊郭の街)のえんどう豆を食べてみたか若者よ、食べてみたけど味は覚えていない」という歌詞となる。
     

 さて、私の創作『今のチンボーラー』の歌詞は以下、平和運動家の影響がある。

 春カジ吹ちゅるクル シマぬ道々アッチーネー
 (春風の吹く頃 村の道々を歩けば)
 チチジ花ぬシダカジャよ 平和でぃアンシヌフクラサよ
 (ツツジ花の清々しい匂いよ 平和であることが喜ばしいよ)

 [ヌンディウムイルスバから (なんて思っている側から)]

 メーニチぬクトゥヤシガ ミンカーナルウカウトゥ立ててぃ
 (毎日の事だけど つんぼになるほど音立てて)
 金網ぬアガタから チブルぬイーウティイチムドゥイ
 (金網の向こうから 頭上で行ったり来たり)

 戦ぬウワティヂートゥラリ 島やアッタニアメリカユ
 (戦が終わって土地を取られ 島は突然アメリカ世)
 ヨーサルムンチャースバなりなり
 (弱い者達は側へ退け退け)
 ウチ世ぬ真ん中 街ぬ真ん中 ジサジサ実際 島ぬ塀々 へ塀

 ユーガバナ咲ちゅるクル 浜にウリやいアッチーネー
 (百合の花が咲く頃 浜に下りて 歩けば)
 ナミカジやナダヤッサン 平和でぃアンシヌフクラサよ
 (波風は穏やかである 平和であることが喜ばしいよ)

 [ヌンディウムイルスバから (なんて思っている側から)]

 ウミバタぬ道なりに金網張らりイリララン
 (海岸の道なりに金網張られて入れない)
 ナマぬチンボーラー フェンスぬミグイや危なさん
 (今のチンボーラー フェンスの周りは危ない)

 ヤマトゥぬユーなてぃ幾十年 ジンぬカワイに基地ヌクチ
 (倭国の世になって幾十年 お金の代わりに基地を残し)
 ヒンスームンチャースバなりなり
 (貧乏人達は側へ退け退け)
 ウチ世ぬ真ん中 街ぬ真ん中 ジサジサ実際 島ぬ塀々 へ塀

 ウチナー生まりてぃナマぬユまでぃ ユぬ中ありくり変わたしが
 (沖縄が誕生して今の世まで 世の中あれこれ変わったけど)
 ナマンチンボーラー 逆なりなり
 (今もチンボーラーは逆さならならで)
 モータイ歌たい カナサンスンドー
 (踊ったり歌ったり 愛することもするよ)
 ジサジサ実際 島ぬ塀々 へ塀
     

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 記:2012.8.9 ガジ丸 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社発行
 『正調琉球民謡工工四第二巻』


美童物語

2012年08月03日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 子供の頃、私は漫画が大好きだった。少年向け漫画雑誌をよく読んでいた。少年マガジン、少年サンデー、少年キングなどの週刊誌、少年、少年画報などの月刊誌があった。作品としては「鉄腕アトム」、「巨人の星」、「おそ松くん」、「伊賀の影丸」、「鉄人28号」、「明日のジョー」、・・・数え上げればきりが無いので以下略。
 青年と呼ばれる年代になってからも私は漫画を読んでいる。ビックコミックとかアクションとかいった青年向け漫画雑誌。作品としては「ゴルゴ13」、「あぶさん」などがあった。中でも「じゃりんこチエ」はファンで、単行本もほぼ揃えていた。もちろん、助平なお色気雑誌、さらに激しいエロ雑誌なども多く読んでいる。
 オジサンと呼ばれる歳まで青年向けコミックはたびたび読んでいて、「家栽の人」はよく覚えている。少年向けではただ一つ、「ドラゴンボール」はほぼ欠かさず読んでいた。従姉の息子がまだ小中学生だった頃、彼が少年ジャンプを愛読していていたので、それを借りていたのだ。そのお陰で、ファンでは無かったが「北斗の拳」も覚えている。
 雑誌では無く直接単行本を買って愛読していたのもある。いしいひさいち全般、手塚治虫の青年向け、大友克弘あれこれ、東海林さだおあれこれ、谷岡ヤスジあれこれ、杉浦日向子あれこれ、やまだ紫あれこれ、ますむらひろしあれこれ、その他「遥かなる甲子園」など私の所有する漫画単行本は200冊を超えていたと思う。

 40歳を過ぎて老眼になって、老眼鏡をかけるのを面倒臭がって本をあまり読まなくなって、ついでに漫画もほとんど読まなくなった。
  先日、そんな私が久々に漫画の単行本を読んだ。埼玉に住む友人Kが「これ、すごいいいよ」と勧めてくれたもの。Kは「美女Hさんへプレゼント」のつもりだったが、その前に私が借りて読んだ。久々の漫画、それは『美童物語』、その1巻、2巻。

 『美童物語』の作者は比嘉慂というお方。私のまったく知らない作家。比嘉という姓からウチナーンチュであろうと想像される。その通り、沖縄県那覇市生まれとのこと。作品の『美童物語』も沖縄を描いている。1巻も2巻も沖縄の戦中の頃を描いている。
 たくさんの人に読んで貰いたいと思って『美童物語』は今手元に無く、たくさんの人が集まる友人Iさんの店に預けてある。なので、確かなことは言えないが、私の錆びかけた脳味噌が覚えている限りでは、1巻の中に4~5編の短編が収録されている。
 短編は、登場人物が何人も重なって出てくるが、それぞれ独立したテーマを取り上げている。時代は昭和、戦争が近付いて来る頃から戦争が始まり、出征する兵士、戦死した兵士(骨も灰も無いが)などが出てくる頃。内容は「糸満売りの少年少女」、「辻遊郭」、「ユタ」、「方言札」、「帰還兵」、「カミダーリー」、「風葬」などなど、錆びかけた脳味噌なのでタイトルも覚えていないし、順番もこの通りでは無い。

 久々の漫画に私は久々に感動した。これほど沖縄の空気を、気分を的確に表現した漫画は、あるいは小説(全部読んでいるわけでは無い)、映画(全部観ているわけでは無い)も含め、この『美童物語』を超えるものは無かろうと思うほど。
 作者の比嘉慂(ひがすすむ)氏を私は全く知らなかったが、1953年那覇市生まれとのこと。そりゃあもう、この作品はウチナーンチュでなきゃ描けない。であるが、1953年だとまだ60歳手前だ。その歳でこれほど深く沖縄の雰囲気を理解し、表現できるとは凄い。おそらく、そうとうの勉強をしたのであろうと想像される。
 『美童物語』は沖縄の空気を的確に表現した最高傑作と私は感じた。それは私の感性によるものだが、でもまあ、沖縄に関心のある方にはぜひとも勧めたい一冊。
     

 記:2012.7.27 ガジ丸 →沖縄の生活目次

 


嘉手苅林昌

2012年01月27日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 ウタシャーの力

 私は同世代の友人たちが、沖縄民謡なんてつまらないと言う者が多い中、高校生の頃から民謡を聴いていて、サンシンは弾けなかったが、ギターで伴奏していくつかは歌うこともできた。その頃からたまに聴いていた民謡番組がある。『民謡でちゅううがなびら』というラジオ番組、出演者も同じままで今も続いている大長寿番組だ。
 番組の中では多くの民謡、多くの唄者が紹介されていたが、司会の上原直彦氏が最も頻繁に名を挙げた人がいる。若手の大工哲弘、古謝美佐子などもよく出てきたが、ダントツに多かったのが嘉手苅林昌、なので、名前は覚えていて、凄い人なんだろうなという認識は持っていた。しかし、その良さを知るようになったのはずっと後。
 その後も、民謡は時々聴いており、10年ほど前からはたびたび聴くようになり、数年前からは頻繁に聴いている。去年引越しついでに多くの音楽CDを処分したが、沖縄民謡は8枚残っている。その内の4枚が登川誠仁で、残りの4枚が林昌。

 昨年暮に埼玉の友人Rがお土産だと言って、林昌のCDを持ってきた。私の5枚目の林昌となった。モノを捨てて身軽になろうとしているのにRはCDやら本やらチラシやらカレンダーやらを土産にいくつも持ってくる。その多くは私の生活の邪魔になり、誰かにあげたり、結局はゴミとなって焼却場行きとなっている。ところが、林昌は別途。
 林昌のCDはどんなものであれ邪魔に感じることは無いと思うが、Rがくれた5枚目の林昌は特に私の感性に合っているようで、もう既に10回以上聴いている。

 ウタシャーとは唄者という意で、奄美ではウタシャという。その奄美ではウタシャの他にもう一つクイシャというのもあって、それは声者という意。「美声で上手く歌っているが、歌の何たるかを悟っていない歌手」とのこと。つまり、ウタシャより一段評価は下がるらしい。その意味で言えば、嘉手苅林昌は大ウタシャといって間違いない。
  5枚目のCDに収録された曲の多くは林昌の独演であった。林昌の独演は私のライブラリーの中にも4、5曲はある。あるといっても約80曲の中の4、5曲だ、希少である。それがこのCDは、私の耳が捉えた限りでは9曲が独演。他のCDが過去に録音された曲を収めたものが多い中、このCDは1994年4月の録音とある、林昌74歳の録音で、過去の録音のようにバックにあれこれ入れないように敢えてしたに違いない。
 プロデューサーは林昌の独演に大いなる価値を見出したに違いない。円熟の林昌は、サンシンと自らの声だけで見事な世界を造り出している。
 初めて聴いて感動して、その後数日間、1日1回は聴いた。林昌のボソボソ声が部屋の中に染み渡り、その節回しが心に染み入った。
     

 嘉手苅林昌(カデカルリンショウ)
 1920年8月、旧越久村(現沖縄市)に生まれる。
 9歳の頃からサンシンを弾き歌う。戦前から沖縄芝居の地謡(ジウテー)を勤め、戦後はラジオ番組に出演し活躍する。多くのレコードも出し、多くの唄を歌っている。大城美佐子や登川誠仁とのデュエットも多い。有名な『時代の流れ』は林昌の作詞。
 1999年10月、肺癌により死去。

 記:2011.2.24 ガジ丸 →沖縄の生活目次

参考文献
『正調琉球民謡工工四』喜名昌永監修、滝原康盛著編集発行
『沖縄音楽人物事典』山川出版、昭和58年12月発行


お勧め民謡 国頭ジントーヨー

2011年09月09日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 昨年(2010年)12月、十数年ぶりにカラオケ屋へ行き1曲歌った。十数年前にカラオケスナックのお嬢さんに、「オジサンがオジサン臭く無く、しかも、若者ぶっているようには見えず、なおかつ、若い女性に受ける歌は何か?」と訊いて、「スピッツの歌ならいいんじゃない」と言われたので、その日歌ったのは『空も飛べるはず』。
 『空も飛べるはず』は声を張り上げないと歌えない歌であった。それが失敗だった。たった1曲で翌日喉を痛め、そのついでに風邪もひいてしまった。ということで、スピッツは諦める。「若い女性に受けよう」などと不純な理由がそもそも良くない。歌うのであれば、自分が歌える歌、歌いたい歌を選ぶべきであったのだ。

 年が明けてから、聴く音楽の半分は沖縄民謡となった。残りの半分は概ねクラシックなので、覚えようと思って聴いているのは沖縄民謡だけとなる。目指すは嘉手苅林昌。
 嘉手苅林昌については、いずれまた別項で述べるとして、今回は唄の紹介。

 私は同世代の多くの友人たちが、沖縄物は田舎臭い、沖縄民謡なんてつまらないと言っている中、高校生の頃から民謡を聴いていて、その頃既にいくつかは歌うことができた。大学生の頃、添乗員のバイトで町田市のご老人方を案内した際、バスの中でカラオケ大会となり、ご老人達に請われて沖縄民謡を2曲、披露したこともある。
 その時披露したのは『西武門節(にしんじょうぶし)』と『白浜節』、『西武門節』は歌詞の内容も曲も好きだったから、『白浜節』は覚えやすかったからというそれぞれの理由で覚えていた。歌えた民謡は他にもあり、『白浜節』より好きなのもあったが、この2つが、倭国のご老人達に歌詞の意味を説明しやすかろうと思ってのこと。

 そらで歌えて、『西武門節』と並ぶほど好きな民謡がある。『国頭(くんじゃん)ジントーヨー』という唄。デュエット曲なので、一人ではなかなか歌えない。
 『正調琉球民謡工工四(くんくんしい、三線の楽譜)』第一巻から、その歌詞。

 アキト(あれまあ) ナマ(今も) ウンジョウ(あなたは)
 ガンジュ(頑丈) シチ(して) ウタミヨ(居たのネ)
 ぃやーん(お前も) カワランセ(変らないさ)
 ジントヨー(囃子言葉) ムトゥ(元)ヌ(の)シガタ(姿)

 以上が1番、前半を女が歌い、後半を男が歌う。簡単に和訳すると、

 あれまあ 今でもあなたは元気でいたのね。
 お前も変っていないさ 元の姿だよ。
 
となる。この後、「あなたを頼りにしていたから、三十過ぎても私はまだ結婚していないのよ」などと女が愚痴を言い、「戦争があったからしょうがないさ。爺さんとでも結婚すればいいじゃないか」などと男が返す。歌詞をみると女の恨み節のようでもあるが、曲調が明るいのでジメジメしていない。全体にユーモアあり、いかにも沖縄って感じ。
 なお、ジントヨーは、他の唄でもよく使われる囃子だが、「ほんとにそうだ」といった意味合いがある。「ホント、君は元のままだよ」と女性は言われたいだろうね。
     

 記:2011.3.8 ガジ丸 →沖縄の生活目次

参考文献
『正調琉球民謡工工四』喜名昌永監修、滝原康盛著編集発行


凛として歌う

2011年09月02日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 ヤマトゥンチュ(倭人)でありながら、東京で琉球民謡の唄三線の先生をしているというM女史から2曲の琉球民謡が送られてきた。作品名は『貫花節』と『収納奉行』で、演者はいずれも船越キヨ。船越キヨは戦前、戦中、戦後の琉球民謡界では糸数カメと共に女性ウタシャ(唄者)の超有名人。琉球民謡レコード歌手の草分け的存在でもある。
 大正2年に生まれ、平成4年に数え80歳で他界した。グソー(後生)の人となって早や十九年になる。「超」が付くほどの有名人とは知らなかったが、私にとっては親戚のおばさんでもあったので、民謡界では名の知れた人というのは知っていた。ただ、私が高校生になる頃にはもう第一線から退いていたようで、有名な民謡歌手のその活躍ぶりはほとんど知らない。親戚のグスージ(御祝事)の際にはたびたびその唄を披露したらしいが、私は覚えていない。今から思えば、その唄をちゃんと聴いとけば良かったと残念に思う。「船越キヨさんの歌はパワフルでダイナミックでとても好きです」とはM女史の評、「最近の民謡歌手の技巧的なうたはあまり好きではありません」とも付け加えていた。

 私は、それが船越キヨの歌であると認識して聴いたのは今回が初めてで、「なるほど、これが名人というものか」と思った。「最近の民謡歌手の技巧的なうた」というM女史の言葉にも合点がいった。背筋の真っ直ぐな凛とした唄だと感じた。
  船越キヨが三線の名手であることは私も若い頃に聞かされ知っていた。しかし、M女史から送られた2曲を聴いて「三線の名手」の技に私は気付かなかった。船越キヨの歌声に感動して、そればかりに傾聴したいたからかもしれない。あるいは、船越キヨの三線の音が、空気がそこにあるが如く自然に存在していたからかもしれない。なんて、カッコいいことを言っているが、実は私は、三線が名人であるかどうかを判断できるほど三線の技に精通しているわけでは無い。素人耳にそう聴こえたということである。

 船越キヨの唄に感動してから3週間ほども過ぎたある日、船越キヨの娘K姉さんに会う機会を得た。その時に、「うちの母ちゃんは凄い人だったんだよ」のエピソードをいくつか聞かせて貰った。私にとっては親戚のおばさんでもあったので、私人としての船越キヨについては少し知っている。躾の厳しい人であったと記憶している。子供の私にとっては怖いおばさんという印象であった。しかし、その厳しさは我が身に対してと芸事に関してはなおいっそう強くあって、それが「凄い人だったんだよ」の源になったのであろう。
 以下は、K姉が語ってくれたエピソードの中からの一つ、二つ。

 私(K姉のこと)は子供の頃から母ちゃんに言われ琉球舞踊をやっていたでしょ、それで、高校の時に新人賞を貰って、ある料亭のの踊り手に応募して受かったの。踊り手は5人選ばれたんだけど、私が船越キヨの娘であることを知ると、料亭の人はその日から私一人だけ高級車で送り迎えをするようになり、たびたびお土産もくれるようになったの。それは良かったんだけど、他の4人から嫉妬されて大変だったさぁ。
 母ちゃんの告別式の時、私たちもびっくりしたんだけどね、当時の県知事、那覇市長をはじめ、各政党の偉い人達、財界の人達、マスコミ関係の著名な人達がたくさん焼香に来てくれたの。告別式会場の関係者も慌ててさ、大きな看板を出したりしてたさぁ。
      

 記:2011.8.20 島乃ガジ丸 →沖縄の生活目次