ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

瓦版082 元気の源

2009年02月06日 | ユクレー瓦版

 いつもの週末、いつものユクレー屋、カウンターにはユイ姉がいる。オキナワの店は信頼できる人に任せているらしいが、それにしても、ここに来てもう一月半ほどになる。大丈夫か?と思うが、私やケダマンにとっては、ユーナやマナよりユイ姉の方がいい。なにしろ、この道のベテランだ。酒の肴も旨いものを作ってくれる。

 「ねぇ、ちょっと裏に行って、パセリをどっさり取って来てくれる?」と言う。ユイ姉の視線はケダマンに向いている。なので、ケダマンが答える。
 「ん?裏って、すぐそこだろ?自分で取って来いよ。」
 「あんたたちのために料理作ってあげようと思ってるんだけどね。」と、ユイ姉はいつもの穏やかな口調だが、眼鏡の奥の目がギラっとひと睨み。逆らえない。
 「分ったよ。パセリだな。緑の、むじゅむじゅしたやつ。」と言って、ケダマンは裏口から外へ出る。外の風が開いたドアから吹き込む。
 「ひえー、寒いねぇ。」と、ケダじゃなくユイ姉。まあ、この時期は一年でもっとも寒い季節。南の島とはいえ、外の風は冷たい。・・・人間には、冷たい。

 「そういえば、あんたたち、あまり寒さを感じないんだったね。」
 「そうだね、感じないことはないけどね、この程度は平気だね。」
 「暑いのにも平気なの?」
 「暑さも大丈夫だね。でも、寒い暑いの気分は分るよ。マジムン(魔物)になる前の記憶が残っている。僕はどちらかというと、寒さに弱かったな。」
 「ふーん、それが、マジムンの今は平気なんだ。そういえばさ、シバイサー博士は元気なのかどうか判断が難しいけど、あんたやケダやガジ丸はいつも元気だよね。」
 「元気っていえば元気だね。元気じゃなくなる理由がないからね。」
 「元気じゃなくなる理由って、あー、そうか、病気になることがないんだ。でもさ、病気にならないから元気、ってことにはならないよ、普通はね、人間はね。」
 外の冷たい風が一瞬吹き込んで、ケダマンが戻ってきた。すぐに話に加わる。
     

 「あれだろたぶん、元気の気は気持ちの気ってやつだろ。人間は傷つきやすい体を持っている上に、心はさらに傷つきやすくできているからな。」
 「心ならさ、あんたたちも持っているじゃない。ケダなんかさ特に、泣いたり、笑ったり、拗ねたり、怒ったり、普通の人間の心と変わらないような気がするけど。」
 「俺は昔人間だったから、その頃の記憶が残っているだけだ。こういうことされたらこういうふうに思うって記憶だ。それが条件反射みたいに出てくるんだろうな。」
 「ゑんちゅはさ、そういうのあまり無いね、ガジ丸もだけど。」
 「無いね。喜怒哀楽の記憶が薄いんだろうね、ネズミには。でも、泣いたり、怒ったりは無いけど、マジムンになってからは、笑うことはよくあるね。」
 「だね。あんた、いつもニコニコして、元気いっぱいって感じだよ。」

 普段は考えることもなかったので気付かなかったが、そういえば、私はほとんど四六時中楽しい気分にいる。悲しみの源になるモノが無いのだと思う。
 「今、思いついたんだけどさ、動物は生きることそのものが目的だから、生きていられることで満足する。それに対し、人間は元気になるための条件が多すぎるんだと思うよ。恋人がいないと、お金がないと、美味しいもの食べないと、とかね。」
 「そうかぁ、人間は幸せになるための条件が多過ぎるのかぁ・・・。」
 「生きているって言っていいのかちょっと怪しいけど、とにかくこうやって、見たり、聞いたり、しゃべったりするだけで楽しいんだ。これが僕の元気の源かな。」

  などと話しているうちに夜が来て、いつものようにガジ丸一行がやってきた。
 その日、ガジ丸から私にプレゼントがあった。プレゼントは唄、私のテーマソング。前に、ガジ丸の唄『古い猫は旅に出る』を聴いて、私のテーマソングも作ってくれと頼んであったのだが、それができたとのこと。題は『野山の瓦版』。
 さっそく歌ってくれたが、「明るく軽快なものを」という私の注文通りのものだった。唄の披露が終わった後、元人間だったケダマンが、人間みたいに拗ねた。
 「ガジ丸、俺のテーマソングは無いのか?」
 「ん?お前のテーマソングって、ずいぶん前に作ったと思うが、忘れたか?」
 「ずいぶん前・・・あー、あれか、あー、そうか。」
 ケダマンのテーマソングというのは『空を飛ぶなら』という題らしいが、
 「あれ、ずいぶん短い曲だよな、一番しかない。」と、ケダはなおも拗ねていた。
     

 記:ゑんちゅ小僧 2009.2.6 →音楽『野山の瓦版』


山を越えることなく

2009年02月06日 | 通信-その他・雑感

 火曜日の夢を見た。火曜日はゴミ出しの日だ。ゴミの袋詰めは前夜に準備してある。出勤時に出す。その後のことははっきり覚えていないが、いつものように仕事をして、いつものように帰って、いつものように夜を過ごし、いつものように寝た。
 朝、目が覚めて、台所へ行くと、出したはずのゴミが玄関に残されている。「あれ?昨日、確か出したはずなんだが・・・。」と不思議に思う。
 火曜日と水曜日とでは朝飯の種類が概ね違う。その時、台所に準備されていた朝飯の種類は火曜日のものであった。そこでもまた、「???」となったのだが、その後すぐに、「あっ、今日は水曜日じゃなく火曜日か、火曜日一日過ごしたのは夢だったのか。」と気付いた。何だか変な気分。一日得したような、損したような。

 それから数日後、今度は一夜でたくさんの夢を見た。どの夢も最後にハッとするようなことがあって、目が覚めた。ハッとするようなこととは、他人を傷付けたり、罪を犯したり、大怪我をしたり、不治の病を宣告されたりといったようなこと。覚えているのは4、5回だが、おそらく、似たような夢をその数倍は見たと思う。
  ハッとする夢は、ハッとしたことだけが大きく記憶に残っているだけだが、最後の夢だけははっきり覚えている。そして、最後の夢は、ハッとするようなことは無かった。
 私は演劇学校の生徒である。私を含めたクラスの男子3人が先生に呼び出される。先生は若い美人の先生。自分の才能に自信を無くし、演劇に対する情熱も失いかけた男子3人を、彼女はサイクリングに連れ出す。4人で自転車を漕ぐ。緩やかな坂道を上っていく。その間、先生はいろいろ話してくれる。演劇のこと、人生のこと。
 途中から女子が1人加わる。才能があって、成績優秀で、生意気だと思われている女子だが、私とは仲が良い。でも私は、好きな子は別にいる。大人しい子だ。だけど私は、本当に好きな人は先生である。実は、私の悩みは演劇では無く、そっちの方であった。

 映像も現実そのものであったが、私の心の動きがとてもリアルで、目が覚めるまで、私はそれが夢であるとはちっとも思っていなかった。なので、覚めた時、「なーんだ夢か」と大変がっかりした。悩める少年は、悩みながらも幸せだったようだ。
 夢は、上り坂がもうすぐ終わり、坂のてっぺんが見えたところで終わった。行先に光が見えているという暗示だと思って、私は幸せな気分で目が覚めた。
          

  ところが、よく考えると、夢の中でも私は山を越えていないのであった。ギターに挫折し、バンジョーに挫折し、ベースにもピアノにも挫折し、英会話に挫折し、スペイン語や中国語に挫折し、仕事に挫折し、結婚に挫折した。挫折だらけ人生なのだ。これまで、山を越えることなく生きてきたのだ。山の向こうに何があるかを知らない人間なのだ。
 それでも、だ。それでもなお、そんな人間でも生きている。楽しい夢を見て、幸せに浸っている。挫折を味わい、将来を悲観している青年達へオジサンは言いたい。自暴自棄になる必要は無い。貧乏でも孤独でも、食っていけるだけの最低限の稼ぎさえあれば生きていける。自分や他人を傷付ける必要は無い。平坦な人生も悪くは無いぜ。
          

 記:2009.2.6 島乃ガジ丸