ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

さすらうオジサン

2016年03月18日 | 通信-科学・空想

 1993年12月、実家から首里石嶺にある家賃3万円のアパートに越し、2011年9月、今のアパートに越すまでの約18年間をそこで過ごした。南風原に生まれ、小学校に入るまでの数年はコザ、小学校の1年間は那覇市三原、両親が頑張って那覇市泊にマイホームを建て、小学校2年から高校1年まではそこで暮らし、高校2年から浪人1年までは首里で1人暮らし、大学の5年間は吉祥寺、武蔵境、小金井、国分寺と住処を替え、沖縄に戻って1993年11月までの約10年間は実家で暮らした。
 首里石嶺のアパートで暮らした期間は、那覇市泊の実家で暮らした期間とほぼ同じとなっている。というわけで、首里石嶺のアパートは私にとって第2の実家と言ってもいい。アパートは4世帯あり、その内の数人と仲良くユンタクし、隣に住む大家とはその奥さんも加え仲良くさせてもらい、向かいのオバサン、裏のオバサン、近所のオバサンたちとも時々ユンタクさせて貰った。部屋に白アリが発生して部屋を出たわけだが、白アリが無ければずっと住んでいたかもしれない。楽しい近所付き合いであった。
          

 先日、そのアパートへ行った。部屋を見ながら大家と私が会話している。「白アリはまだいそうですね?」、「いるみたいだなぁ。他所を探した方がいいかもな、ここから少し離れているが、私の知っているアパートがある、紹介するよ」となった。
 道路に出ると目の前に車が停まった。「私が送っていくよ」と運転手が言う。若い女性だ。見覚えのある顔、私が以前勤めていた会社の事務員Mだ。元暴走族だったMはまあまあ可愛い顔なのだが、ヤンキーらしく派手な顔付きであった。が、その時のMは前に比べるとずっと(私好みの)大人しい顔になっていた。で、私と大家は後部座席に乗る。
 大人しい顔になっていたMであったが、車の運転は元暴走族の片りんを見せた。「行くよ!」と気合を入れたかと思うとぶっ飛ばした。一山超える道は細く、勾配があり、蛇行する道、そんな道を猛スピードで走る。「アパートを見に行くだけだ、そんな急いではないからスピードを落とせ!」と私は叫ぶが、「大丈夫よ!」と彼女は聞かない。
 恐怖の十数分が過ぎて目的地へ着く。着いた所は原野であった。「土地を購入し、自分で家を建てる場合ならということだ」と大家が言い、そこにいた不動産屋らしきオジサンがあれこれ説明する。それらに私は適当に受け答えする。その時、私の心の多くは別のことに集中していた。Mが私に寄り添っていて、私の手を握り、指を絡ませてきたのだ。私は彼女の顔を見、彼女の目をじっと見つめ、彼女が言いたいことを理解し、絡んでいた指をほどいて、その手を彼女の腰に回し引き寄せた。「危ねぇぞ、捕まっちまうぞ!」と、もう1人の私が警鐘を鳴らしていたが、その声に私は耳を塞いだ。
          

 朝起きて、朝飯を食い、歯を磨き顔を洗い、雲子をし、コーヒー飲みながら1服して、着替えて、畑へ出る。畑へは歩いて行く。5分とかからない。これまでは夕方のラッシュ前の4時頃には帰っていたが、車を使わないので渋滞の心配は無い。日が暮れるまで畑仕事ができる。そういう生活がしたいと、一昨年からアパート探しをしている。
 畑の近くに住む、そのためのアパート探しは正しい要求のようだ、夢にまで見る。上記の「先日、そのアパート・・・私は耳を塞いだ。」までは夢の中の話。女に捕まってしまったことについては、私の潜在意識の要求なのかどうか、まだ解析できていない。

 記:2016.3.18 島乃ガジ丸


ヌチグスイ

2016年03月18日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 3月11日付ガジ丸通信「噂を信じちゃ・・・」を書いている時、それに関わる画像はないかとパソコンの中を探したら、テレビ番組の録画が見つかった。2014年春に終了した「笑っていいとも」の録画だ。「いいとも」は私の好きな番組であった。私はテレビを持っていないので、従姉の娘、可愛いS嬢に頼んで録画してもらったものだ。「噂を信じちゃ・・・」で紹介している画像は、その中から拾ったもの。
 「その中」と書いたが、じつは、私がS嬢に頼んだのは最後の「いいとも特大号」だけであった。ところが、映像フォルダの中にはいくつもの「いいとも」があった。もちろん頼んであった「特大号」もあり、その他、1週間分のレギュラー放送があった。
 テレビを家から追放したのは2011年7月、以降、他所の家に行ってテレビの画面が目に入ったことはあるが、私はテレビを「観て」はいない。それ以前もテレビを観る時間は少なかった。「笑っていいとも」は私が観ていた数少ない番組の1つ。昼飯食いながら観ていた。「いいとも」録画がずらっと並んでいるパソコン画面を見ながら、「これだなヌチグスイとは」と私は思い、幸せな気分になる。
     

 ヌチグスイという言葉は私の祖母がよく口にしていたので、私も子供の頃から知っていた。お菓子などを私が買って帰って、それを祖母に少し分けると、それを食べ終えた祖母が「ヌチグスイさたんどー(したよー)」としばしば言っていた。
 ヌチグスイ、沖縄語辞典に記載がある。「命の薬。長寿の薬」のことで、第2義に「転じて、非常においしいもの」とある。ヌチグスイは基本的には飲食物のことのようだ。祖母もその意味で使っている。しかし、そこからさらに転じて、「生きる力を与えてくれるもの」という意も、私がこれまで聞いてきたヌチグスイにはあると思われる。
 「生きる力を与えてくれるもの」とは飲食物に限らない。心に染みる良い映画を観た時、良い音楽を聴いた時、人の優しさを感じた時にも生きる力は得られる。

 私が「笑っていいとも」の録画にヌチグスイを感じたのは、番組そのものが面白くて生きる力が湧いたというわけではない。私のヌチグスイの対象となったのは、「オジサンはいいとものファンだ、1週間分録ってあげよう」というS嬢の優しさだった。
 S嬢が「笑っていいとも」を録画した媒体はS嬢の家にあったレコーダー、そのレコーダーを借りて、家に持って帰って、データを私のパソコンに移した時に「録画はいくつもある」ことに気付いていたが、「特大号は長時間だからそれをいくつかに分けて録画したのであろう」と思っていた。それから数ヶ月後に「特大号」とはっきり判るデータは観終わったが、残りのデータは何であるか確認されることもなくいつしか忘れ去られ、2年近く経った先日になってやっとその存在を気付かれる。可哀想なのは、データではなく、その優しさをオジサンに気付かれることもなく、お礼もされなかったS嬢である。
     

 記:2016.3.11 ガジ丸 →沖縄の生活目次