歳取ると共に月日の流れが速くなると言うが、それはもう、私は充分に実感している。ついこのあいだ、年末大掃除をした感覚なのに、もう既に5月下旬になっている。
それはさておき、先日、といっても2ヶ月ほど前、ラジオから聞こえてきた言葉に違和感を感じた。ラジオから聞こえてきたのは「ギブソン」と「マーチン」。私も若い頃はギター少年だったので、それがギターのメーカーであることは知っている。しかし、その発音が、「ギブソン」はソンの方を高く、「マーチン」はチンの方を高く発音していた。私の知っているギブソンはギにアクセント、マーチンはマにアクセントがあった。
このごろ、といっても何年も、あるいは2、30年も前からかもしれないが、名詞だと後ろの方にアクセントを置いて発音することが流行となっているみたいである。
「笑っていいとも」と言う時、「いいとも」の最初の「い」にアクセントがある。ところが、「笑っていいとも」を略して「いいとも」と言う時、オジサンは変わらず「い」にアクセントを置くが、特に、若い女性たちは「とも」の方を高く発音する。初めの頃オジサンはそれに違和感を感じていたが、年月を経て、今では気にならなくなった。
2011年7月末日からテレビを観られなくなった私だが、その前まではちょくちょく観ていた。アンテナの都合でチャンネルはほぼ8(フジテレビ系)に固定し、朝は『目覚ましテレビ』を見て(観るほど集中はしていない)、夕方帰宅するとフジテレビのニュースを見る。若い頃はドラマも観ていたが、オジサンとなってからはバラエティーを観る程度で、それ以外だとテレビを消し、音楽を聴いている時間が多かった。
過日、といっても2年前、2014年3月のこと。それ以前に、長年続いていたテレビ番組『笑っていいとも』が終了するという噂を聞いていた。「あー、いいともが終わるのか、残念だなぁ、始まって30年以上経つのか、俺も年取るはずだ」と思った。
職場が家から近く、昼食は家で摂ることが多かったこともあり、お昼の『笑っていいとも』はよく観ていた。『いいとも』のお陰で今どんな芸人やタレントが旬であるかを知ることができたと言っていいのだが、『いいとも』の魅力はやはり、MCのタモリにあると思う。タモリの知的で斜に構えた、乾いたユーモアが私の笑いの壺にピッタリ嵌った。笑いの壺に嵌ったといっても大笑いすることは無く、ニヤリとした笑い。
タモリのユーモアセンスが好きなので、タモリの出演する他の番組も良く観ていた。特に、『今夜は最高』は大好きであった。その番組ではニヤリ以上の笑いを、私は1人の部屋で何度も発していたと記憶している。『今夜は最高』は最高のショー番組と私は評価していたのだが、ところが、いつのまにか終了していた。「何で?あんなに面白いのに」と不思議に思い、『今夜は最高』の最後を観ていないことを残念に思った。
それもあって、『笑っていいとも』が終了するという噂を聞いて、その最後の特番くらいは観ておこうと従妹の娘S嬢にその録画を頼んだ。S嬢は特番だけでなく、最後の1週間分の『いいとも』も録画してくれていた。今年3月になってやっとそれに気付き、その後数日かけて全部観た。最後の日のエンディング、明日は無いのに「明日も観てくれるかなぁー」とタモリが言う。いかにも彼らしいユーモアに観客が「いいともー」と応える。この時の「いいとも」は「い」にアクセントがあった。明日も続きそうに感じた。
記:2016.5.20 島乃ガジ丸
スーコー(焼香)とは、和語で言うと年忌にあたるもの。沖縄と倭国とでは年忌にもいくらかの違いがあるだろうと広辞苑で年忌を引く、年忌は回忌のことで、回忌とは年回忌の略とのことで、その説明文を要約すると、「満1年目を一周忌または一回忌、満2年目を三回忌または三周忌、以下七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌などがあり、仏事供養を行う」とのこと。
沖縄では一回忌、三回忌、七回忌、十三回忌、二十五回忌、三十三回忌で、三十三回忌のことはウワイスーコー(終わり焼香)、またはウフウスーコー(大御焼香)と言い、これを最後のスーコーとする。沖縄大百科事典によると、十三回忌以降は倭国で始まった仏事らしく、16世紀より前の沖縄では七回忌が最後のスーコーだったようだ。
父の七回忌は今年(2016年)の5月13日。その頃、沖縄は梅雨時なので雨の心配もあったが、七回忌は墓参りを省いてトートーメー(位牌)を拝むだけも良い。トートーメーは寺に預けており、建物の中にあって、雨降りでも行事ができる。
その二週間ほど前に、同じ寺で伯母の二十五回忌があった。伯母の子供(私の従姉達)で存命しているのは2人いるが、姉E子は持病があり無理が効かないということで、妹K子が行事を仕切った。K子は仕来りに則り、お坊さんに読経を頼み、供え物もたくさん供え、親戚にくまなく連絡して、十分の香典返しも準備怠りなかった。伯母の妹が1人存命だが、彼女は今帰仁在と寺から遠く、また、高齢ということで不参加。しかし、子供2人に加え、孫、曾孫、玄孫など総勢50名ほどが集まる賑やかな法事となった。
翌日、K子からメールがあり、「香典返しに持たせた饅頭が紅白になっていた、菓子屋のミスだ、文句を言ったら「全員に正しい物を送り直す」と言うので、住所教えて」とのこと。「25年といったらお祝いとしてもいいじゃないか、白白が紅白になったっていいじゃないか」と私は思ったのだが、女の矜持が許さないみたいである。メールには「腹立った」とも書いてあった。「立派な法事だった、K子よくやった」と皆から褒められることがK子の喜びなのかもしれない。で、小さなミスにも腹が立ったのだろう。
2012年5月13日に父の三回忌があった。まだ実家も残っており、アメリカから姉が帰ってきており、従姉達も手伝ってくれたのである程度仕来り通りに行った。墓掃除をし、仕来り通りの供え物をし、坊さんを呼んで読経もしてもらい、叔父など10人余りが集まった。私も時短にはなっていたが、リストラ前だったので余裕があった。
翌年10月18日は母の七回忌だった。実家はまだ残っていたが、売却することは決まっており、リストラ後の私にあれこれ手配する余裕もなく、1人の七回忌となった。それでも、甘いワインの好きだった母へ、まあまあ甘目のワインとワインに合うチーズや生ハムなどの肴を供え、ウートートゥ(御尊いという意の祈りの言葉)した。
父の七回忌、姉はアメリカ在で、弟は千葉在ということもあり、仕切るのは私。K子姉のような「立派な法事」を私はちっとも目指していない。姉の次男が沖縄在なので、彼にとっては二親等である爺ちゃんだ、彼にだけはメールで知らせたが、他の親戚には連絡せず、覚えている人が来てくれたらいいと、自分1人で行うことにした。
アメリカの姉から「5月13日、父さんの七年忌やるの?」メールがあったので、「やるよ」と返信したので、その日七回忌があることは姉も知っている。ただ、「2時頃から3時頃まで私は寺にいる」といったことは甥だけに知らせていた。
その日、午後2時に寺へ着き、さっそく法事を始める。私が仏前に供えたのは、数日前にスーパーに頼んであった沖縄の御馳走が盛られたお供えセット、その他その日購入したお菓子、ビール、お茶、仏前に常備してある泡盛、それから、稼げてはいないが私がハルサー(農夫という意の沖縄語)であることの証拠に、今収穫できるエダマメとフーチバー(ヨモギの意の沖縄語)を、エダマメは蒸して、フーチバーはお浸しにして供えた。K子姉の供えたものに比べると100分の1も質素だが、心は籠っていると自負。
暇なので瞑想などしながら1時間ほどそこにいて、3時に片付けを始める、その最中、連絡してあった甥のTと彼の母親(私の姉)が来る。その数分後には従姉のMも来る。K子姉の仕切った法事に比べると10分の1にも満たない人数だが、それぞれが父の好きだったものを供えて線香を点てた。心の籠った七回忌だと私は思った。
記:2016.5.20 ガジ丸 →沖縄の生活目次