玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(6)

2015年08月16日 | ゴシック論

「世界は言葉でできている」とは、いかなることを意味しているのであろうか。絵画が絵の具で描かれるように、小説は言語で書かれるという作品内的な意味なのだろうか。
 確かに山尾悠子の作品は、特に「遠近法」は《腸詰宇宙》を詳細に描いていくことにおいて"人工的"であり、小説が言葉による構築物であることを強く感じさせる世界を持っている。
「遠近法・補遺」のラストはまさに、言葉の世界が終わるところを建築物の崩壊のイメージに暗喩させている。言葉で造られた世界がまるで建築物のように崩壊していくカタストロフィーとして展開されているのである。次のように。
「相対的な無気力化が進む中、それども間歇的に一人の男が立ち上がっては、世界の果てへと出発していく。が、その召命者の数もついに尽きた。あとは何もない。何も起きない。この言葉の宇宙が崩壊する時、鏡の破片や砂の形をした言葉のかけらが落下していくだけだ」
 そしてこの後に、「誰かが私に言ったのだ/世界は言葉でできていると」の詩句が続くのである。さらに、誰かが私に言ったことがもう一つある。神の運命についてである。
 太陽と月と欄干と回廊
 昨夜奈落に身を投げたあの男は
 言葉の世界に墜ちて死んだと
「あの男」が神であることは小説の最後に言明されているので、神は言葉の世界に墜ちて死ぬのだということが理解される。ここには言葉と神をめぐる形而上学的な思考が認められる。
 太陽も月も欄干も回廊も実体ではなく、言葉に過ぎない。つまりは「世界は言葉でできている」のであるから、言葉の終焉とともに世界も終わるのであり、真っ先に死ぬのは神なのでなければならない。だから「世界は言葉でできている」という詩句の意味は、作品内的なものに止まることはない。
 私は「世界は言葉でできている」という詩句がいささか有名になりすぎたと書いた。この詩句はあまりに切れ味が良すぎて、山尾作品のキャッチコピーのようになっていて、それに対する深い追究を妨げる要因とさえなっている。きちんと考えなければならない。
「世界は言葉でできている」という意味のことを最初に言ったのは、おそらくヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)である。ベンヤミンは彼が25歳の時に書いた「言語一般および人間の言語について」を次のような宣言から始めている。
「人間の精神生活のどのような表出も、一種の言語(Sprache)として捉えることが出来る」
さらに以下のような文章でその宣言を補完していく。
「言語の存在は何らかの意味でつねに言語を内在させている人間の精神表出の、そのすべての領域に及ぶのみならず、文字通り一切のものに及んでいる」
そして
「われわれはどのような対象にも言語のまったき不在を表象しえない」
 つまり、言語の存在は人間の精神だけではなく、世界に所属するあらゆるものに及んでいるというのである。

ベンヤミン・コレクションⅠ「近代の意味」(1995年、ちくま学芸文庫)久保哲司訳