玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(7)

2015年08月17日 | ゴシック論

 ベンヤミンは「言語一般および人間の言語について」の中で、「事物の言語」ということを頻繁に言っている。言語は人間だけが持っているもので、事物の言語などあるわけがないと思われるかも知れないが、そうではない。ベンヤンミンは次のように言う。
「言語は事物の言語的本質を伝達する。だが、言語的本質の最も明晰な現われは言語そのものである。それゆえ、言語は何を伝達するのかという問いに対する答えはこうなる――どの言語も自己自身を伝達する。たとえば、いまここにあるランプの言語は、ランプを伝達するのではなくて(なぜなら、伝達可能な限りでのランプの精神的本質とは決してこのランプそれ自体ではないのだから)、言語-ランプ、伝達のうちにあるランプ、表現となったランプを伝達するのだ。つまり言語においては、事物の言語的本質とはそれらの事物の言語を謂う、ということになる」
 まるで判じ物のような文章だが、ここで語られていることは、世界に所属する事物は、物そのものではあり得ないということ、そして、事物が伝達されるのは言語-事物としてであって、事物それ自体においてではないということである。そこでは事物と言語が一体化されているから、事物の言語は言語自体を伝達するということになる。
 山尾悠子の詩句に戻れば、「太陽と月と欄干と回廊」は物そのものではあり得ず、事物の言語として伝達される。山尾は「遠近法」の中で、しきりに太陽と月、欄干と回廊を描いていくのであるが、それらは事物の言語として伝達されるのであり、事物が世界を構成するのである限り、世界もまた言語によってしか伝達されないのである。
 だから山尾が正しく予見するように、言語が終焉する時に世界は崩壊しなければならない。言語なしに世界に所属する事物は存在できないし、言語なしに世界そのものも存在できないからである。
 ベンヤミンはさらに「事物の言語の人間の言語への翻訳」ということも言っているが、そこには事物と人間との関係についての基本的な認識がある。ベンヤミンは次のように言う。
「事物の言語を人間の言語に翻訳することは、たんに黙せるものを音声あるものへ翻訳することだけを謂うのではない。それは名なきものを名へと翻訳することを謂う。したがってそれは、ある不完全な言語を完全な言語に翻訳することである」
 事物は人間によって名づけられることによって初めて言語として存在するのである。事物が自ずから語り出すことは出来ないのだし、事物に名を与えるものは人間以外にはいないから。だから、太陽も月も欄干も回廊も、人間によって名づけられることによって初めて事物の言語として存在を始めるのだと言っても良い。
 ベンヤミンのこのような汎言語主義は、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)の思想とも共通している。ソシュールもまた人間社会の中心に言語を据えたのであり、それこそが"コペルニクス的転回"と呼ばれるものなのである。二人とも「世界は言葉でできている」ということを究極的には言ったのである。
 山尾悠子は言語に対して極めて自覚的な作家であるということは前に言った。そのことの意味は、単に作家として言語を大切にしているとか、丁寧に言葉を使っているとかいうことを意味しない。そうではなく、山尾は言語の本質に対して自覚的なのであって、そのような作家こそソシュール、ベンヤミン以降の存在として高く評価できるものなのである。
「世界は言葉でできている」という詩句は以上のように理解されなければならないし、そうでなければ山尾悠子の作品を読む資格はない。