玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(5)

2017年12月03日 | 読書ノート

 1対1の構図について、ファニー・アシンガムとボブ・アシンガム夫婦の対決が6回あると書いたが、正確に言うとこの6つの節は必ずしも対決としての性質をもっているわけではない。
 6回のいずれでも主導権を握っているのはファニーの方で、夫ボブの方ではない。ファニーがアメリーゴ、マギー、アダム、シャーロットの四人について、あるいはその四人の関係について、ひたすら分析的言辞を夫に開陳し続けるのである。ボブの方はファニーの言葉に疑問を投げかけたり、否定したりするのだが、結局は妻の言葉に頷くしかない。
 ヘンリー・ジェイムズはなぜこのような二人を『金色の盃』に登場させたのだろうか。一つにはファニー・アシンガムがアメリーゴとシャーロットの過去を知りながら、アメリーゴとマギーの結婚話を進めたということがある。アメリーゴとシャーロットの過去を知る人物はファニー・アシンガムただ一人なのである。
 ファニーはだから四人の関係の成り行きについて、一定の責任を負っていることになる。ファニーがアメリーゴとシャーロットの不倫を予感するとき、自責の念からはげしい動揺をきたすのはそのためである。
 言ってみれば、ファニーはホットな心理分析官であり、クールな心理分析官はといえば作者であるヘンリー・ジェイムズその人である。心理小説にこのような心理分析官を登場させるのは、本家フランスの心理小説には例がなく、ヘンリー・ジェイムズの独創によっていると思われる。
 第1部第3章第11節のファニーとボブの対決の場面で、作者は「情け容赦のない分析的精神がまたもや突然、彼女に取りついた」と書いている。明らかに作者はファニー・アシンガムを心理分析の装置として、この作品に導入しているのである。
 ファニーは夫の前で執拗に四人の関係についての分析を繰り返す。それは自問自答のようでもあり、苦しい弁明のようでもあるが、少なくともこの夫婦の対決の場面では、嘘がつかれたり追従が行われたりすることはない。夫ボブが完全に部外者の立場にあるために、ファニーには夫に嘘をつく必要もなければ、追従してみせる必要もないからである。
 一方、ファニーが他の人物たちと対決する場面ではそうはいかない。ファニーは嘘もつくし、歯の浮いたようなお世辞を弄することもある。つまりファニーとボブの対決の場にあっては、ファニーの発言の真実性が保証されているのである。
 ファニーの発言のすべてが正しいということはないにせよ、この小説の中でその〝情け容赦のない分析的精神〟を働かせて、真実に近づくのは夫と一緒の場面でのファニーに他ならない。ファニーの発言を仔細に見ていくとその正確さが見て取れるし、彼女の発言が小説のプロットに大きな影響を与えていることも見えてくる。
つまり心理小説としての『金色の盃』にはファニーという心理分析官と、作者ジェイムズという心理分析官という二重の分析装置が働いていることになる。ヘンリー・ジェイムズは図式的構図に陥りがちな心理小説に、新たな複雑性を持ち込もうとしているのだし、その試みはあらかた成功していると思われる。
 ヘンリー・ジェイムズがこのような二重の分析的構造を必要としたのは、小説に複雑性を与えるためばかりではない。ファニーのような人物を登場させなくても、心理分析官としての作者の機能を充実させれば済むことではないか。
 しかし作者という心理分析官は、分析することはできても登場人物の関係性に直接介入することができない。たとえばこの小説で象徴的名意味をもっている金色の盃を打ち砕くことは、作者にはできない。
 それができるのはファニー・アシンガム夫人、その人しかいないのである。夫人は単に分析的言辞を弄しているばかりなのではない。夫人はその発言によって四人の関係性に微妙な影響を与えていくのであり、時には金色の盃を割るといったはげしい行動に出ることもあるのだから。