「北方文学」同人の鎌田陵人から、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の「アギーレ/神の怒り」のDVDが送られてきたので、さっそく観た。鎌田によればこの映画はジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』の影響を強く受けた作品で、『闇の奥』を原作にしたフランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」に先行する映画なのである。「アギーレ/神の怒り」は1972年、「地獄の黙示録」は1979年。
「アギーレ/神の怒り」の主人公は、クラウス・キンスキー演じるローペ・デ・アギーレという実在の人物で、この作品は16世紀のスペインによる南アメリカ征服の時代を背景としている。
ベネズエラの作家オテロ・シルバの『自由の王――ローペ・デ・アギーレ』はかなり史実に忠実に書かれた小説で、私は映画「アギーレ/神の怒り」の参考としてこの作品を読んだのであった。
まずは映画の方から。ヘルツォークの「アギーレ/神の怒り」は鎌田から教えられて以来、いつか観たいと思っていたが、レンタルショップにも置いてないし、もともと映画をよく観る方でもないので、いつしか探求を諦めていた。
ある時レンタルショップで、ヘルツォークの「小人の饗宴」という作品を見つけ、借りて観てみることにした。1970年のモノクロ映画である。登場人物は小人ばかり。本物の小人を役者として使っていて、普通の人間は出てこない。だからこの映画は障害者としての小人と、健常者との確執を描いた作品などではない。
そうではなく、人間の社会を小人の社会として描いたもので、そこには階級闘争もあれば、ねたみや抑圧も、驕りや差別すらも、人間のあらゆる悪徳が小人を通して描かれている。まさに〝悪徳の饗宴〟とでも言いたくなる作品なのである。
この映画を観るものは、障害者としての小人に対する憐憫や、共感など微塵もおぼえることはないであろう。そこに己自身の似姿を見るだけである。彼らの悪徳が我々自身の悪徳を全て反映しているからである。
グロテスクな映画である。小人達がグロテスクというのではない。むしろ監督の意図が極めてグロテスクなもので、それに対して観る我々の反応もグロテスクなものであらざるを得ないということを、自覚せざるを得ないというグロテスクな構造を認めないではいられないという意味において。
いくつかの場面が鮮烈に印象に残る映画である。とりわけ小人達が乗り回した末に、放棄された自動車が、いつまでもいつまでも円軌道を描いて無人で走る場面が強烈である。この監督は狂っているとしか思えなかった。
「小人の饗宴」はヘルツォーク監督の作品に、私の眼を向けさせるに十分な作品であり、ほかの作品を観てみたいという欲求は高まっていった。「アギーレ/神の怒り」を本当は観たいのだが、レンタルショップにない。しかし私はヘルツォーク監督の「フィッツカラルド」と「カスパー・ハウザーの謎」という作品のDVDを見つけて、続けて観ることができた。
「フィッツカラルド」はクラウス・キンスキー演じるオペラが大好きなフィッツカラルドが、南米のジャングルにオペラハウスを立てるという夢を実現させるというストーリーの作品である。キンスキーという俳優はどこかで見ていると思うが、一度見たら忘れられなくなる役者で、「フィッツカラルド」でも背が低く悪声であるにも拘わらず圧倒的な存在感を示す。
ゴム林を開発し、運搬の水路を確保するため、アマゾンの源流で大きな蒸気船を、近接する支流に移動するために山越えをする場面が有名で、実際にそれをやったというのだから監督の異常さが知れるのである。ラストは航路を開き、ゴムの運搬を可能にして大金を儲けたフィッツカラルドが、ヨーロッパから呼び寄せた演奏家達の船上でのコンサートを実現させるというもので、なかなかうるわしい結末となっている映画で、それなりに面白かった。
オテロ・シルバ『自由の王――ローペ・デ・アギーレ』(1983,集英社「ラテンアメリカの文学」)牛島信明訳