先に引用した文章に続くのはさらに驚くべき文章で、それが第2節の締めくくりとなっている。
「マギーが戸口に立ってまだ何も言わないでいる間に、彼自身もまたその事実に気づいた。そればかりか彼は、彼女が見たものを自分も見たという気持と同時に、彼女の見たものを自分も見たということを彼女が見たという気持を抱いた。次の瞬間ファニー・アシンガムの表情の中にさらに多くのものを見てとらなければ、この最後の印象が彼にとって最も集中的な認識だった、と付け加えて言ってもよいであろう。彼女の表情は彼の目から隠しておくことができなかった――彼女は全てを見てとったばかりか、その上、父娘が互いに見てとったことまで目敏く見てとってしまったのだった。」
このような文章は心理小説においてでなければ、あり得ない文章である。つまり了解の形は一人の人物が了解に至ったということに止まらず、一人の人物がもう一人の人物の了解事項を了解するという形式をとる。あるいはファニー・アシンガムにいたっては、二人の人物のお互いの了解事項について了解するのである。
しかもこの了解は会話によって惹起されるものですらない。アダムはマギーの表情だけから全てを了解するのであり、さらにファニーの表情だけから了解に至るのである。心理的対決の場にあっては会話すら必要とされない。表情だけで十分なのだ。言葉は嘘をつくが、表情は嘘をつかないからである。
このような了解性をわたしは〝過剰な了解〟と呼びたいと思う。ここには何か正常でないものが含まれている。登場人物が正常でないのではない。作者ヘンリー・ジェイムズに何か正常でない部分があるのではないか。
精神分裂病の症状の一つに関係妄想というものがある。この妄想は自分以外の外界が自分に深く関係していると、根拠もなく思い込む妄想で、自分の周りの人間が結託して自分を攻撃しているというような被害妄想を生むこともある。そうではなく、彼らがお互いに自分とどういう関係にあるのか、あるいは彼らが自分について何を考えているのか、ということへの止みがたい探求への欲望につながることもある。そしてある人物のひと言、あるいはその人物の表情を解読することによって、その探求の迷路が一挙に解消されるかのように認識されることがある。
ヘンリー・ジェイムズの過剰な了解性は、関係妄想が一挙に晴れわたる時のような異常性を帯びていると言わざるを得ない。『聖なる泉』のような実験的な作品では、そうした異常性が露骨に出ていて、主人公の〝私〟の過剰な分析と了解は、ブリセンデン夫人の「あなたは本当に気違いだわ」のひと言で粉砕されてしまうことになる。
過剰な了解性は過剰な分析から生まれてくるのに違いない。過剰な分析は『金色の盃』でも特徴的であって、そこに息が詰まるような緊張感が生まれてくる。この緊張感こそが心理小説の生命線となるのだが、時にカタストロフがないと本気で息が詰まってしまう。
だから『金色の盃』には何カ所かカタストロフとなる場面が仕掛けられているのであって、それが〝了解の瞬間〟として仕掛けられているのが、今私が取り上げている場面なのである。
その了解性は分析が過剰であればあるほど過剰なものとなる。だから異常性は分析と分析の結果としての了解性のどちらにも認められることになる。たとえばファニー・アシンガムの分析癖と、その分析を夫に開陳しないではいられない熱情は尋常なものではない。
ヘンリー・ジェイムズは自らの異常性を、ファニー・アシンガムに肩代わりさせているのだとも言える。そしてもう一つのカタストロフは、彼女の分析によってではなく、彼女の行動によってもたらされるだろう。『金色の盃』の中で最も象徴性を発揮する場面にファニーは立ち会い、行動によってカタストロフを演じることになる。