玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(10)

2017年12月21日 | 読書ノート

 疵の入った金色の盃の象徴するものとは何か。それがマギーとアメリーゴの偽りの夫婦関係であるとか、シャーロットとアダムのそれであるとか言うことはたやすい。最初から疵の入った夫婦関係だったのであり、マギーが自分で発見した金色の盃にそのことを読み取るのだということもたやすい。
 しかし、本当にそうなのか? この節が示しているのはそういうことではないのではないか。マギーはアメリーゴが自分と結婚する前からシャーロットと親しい関係にあり、現在もそうした関係を続けていると主張する。つまり、アメリーゴの真実に対して疑いをもっている。そのことはシャーロットについてもまったく同じである。
 しかしアシンガム夫人は、マギーの考え方を否定する。マギーの言うような事があったかも知れないことを認めながらも、夫人はマギーに対して「二人ともじつに立派な気持で結婚したのです――この点は信じてくださらなくてはいけません」と言う。
 つまりアシンガム夫人は、少なくともアメリーゴの真実を疑ってはいない。二人の対立点はそこにあって、次のように言うとき夫人は、アメリーゴもシャーロットも、お互いの配偶者を裏切るようなことはみじんも考えていなかったということを、アメリーゴの真実を通して主張するのである。

「それに、公爵も彼女を信じていたのです。本気で信じていたのです。自分自身を信じていたのと同じように」

〝彼女〟とは言うまでもなくシャーロットのことである。アメリーゴはシャーロットとの過去を清算し、〝立派な気持で〟マギーと結婚した。シャーロットもまたアメリーゴとの過去を清算し、〝立派な気持で〟アダムと結婚したのだと、アシンガム夫人は言う。そのようにできるということを、アメリーゴは自分でも信じていたし、シャーロットのことも信じていた。
 ここでアシンガム夫人は誤魔化そうとしているのではない。彼女は彼女が固く信じていることを話しているにすぎない。夫人にとってマギーの非難は的はずれだと言いたいのである。
 二人の対決の中には、マギーと父アダムの親密すぎる関係についての言及も出てきて、多分たった一度限りのアメリーゴとシャーロットの不倫(第1部第3章第9節で描かれている)の大きな要因となったものが、そのことに他ならないということも仄めかされている。
 非はアメリーゴではなくマギーにこそある、とアシンガム夫人は考えているのである。そしてマギーの認識に重大な誤りがあることも夫人は知っている。だからアシンガム夫人は次のような言葉でマギーを難詰するのである。

「ひびがはいっている? ということは、あなたのお考え全体にひびが入っているということです」

 ここでは金色の杯の疵が、マギーの認識の誤りに譬えられている。だとすれば、疵の入った金色の盃の象徴するものは、マギー自身だということになる。うわべを繕ってはいても内実がひびだらけであるのは、マギーとアメリーゴの夫婦関係でもなければ、シャーロットとアダムのそれでもない。
 だからアシンガム夫人が金色の盃を破壊するのは、証拠隠滅のためなどでは決してない。むしろマギーの疵だらけの認識を正し、真実に目覚めさせるためだと言ってもよい。
 以上のような読みはアメリカの批評家達ではなく、訳者の青木次生の考えに近いものであるだろう。しかし、ここで方向は逆だといっても、私の議論は道徳論的にすぎている。
 本当は戦闘報告書としての心理小説のあり方についいて書きたかったのだが、それはジェイムズの小説の影響のもとに書かれたといわれる、夏目漱石の『明暗』と比較を行うときのテーマとしようと思う。
(この項おわり)