玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(9)

2017年12月20日 | 読書ノート

 第2部公爵夫人の第4章第9節は、この小説の中で最も大きな山場をなしている。ここにタイトルの由来となっている〝金色の盃〟が、再び登場すると同時に、永久に失われてしまう。
 この金色の盃はアメリーゴがマギーと結婚する直前に、シャーロットに誘われて行った古道具屋で見つけ、店主の「疵が入っている」との言葉に買い求めることをしなかった品物であった。それを偶然マギーは一人で発見し、店主からアメリーゴとシャーロットがその盃を物色していたことを知らされ、二人の関係について初めて知ることになる。
それを知ったマギーは、証拠の品である金色の盃を見せ、何があったのかを知らせ、説明を求めるために、ファニー・アシンガム夫人を電報で呼び寄せる。そこから二人の鬼気迫る対決が始まるのだ。
 対決が始まる前に次のような文章が周到に用意されている。

「いずれにせよマギーは戦闘の陣立てを整えていた。冷静な判断に基づいて、すでに彼女は計画を――差し当たっては「どのような変化」も示さない、許さない、という計画を――立てており、その計画に従って、いつもの通り晩餐会に出掛ける積り、しかも赤く泣き腫らした眼や、引きつった表情や、取り乱した様子など、少しでも疑問を起こさせるところは人に見せない積りなのだ。」

 つまりマギーは、アメリーゴとシャーロットの両人と旧知の間柄であったアシンガム夫人から、決定的な事実を聞き出そうと、戦闘態勢を整えて待ちかまえているのである。そして何を聞かされようが、冷静に対処して、人前で動揺を示すようなことがあってはならないと、心に決めているというわけだ。
 この対決でどちらが勝ったかといえば、最後に金色の盃をたたき割るアシンガム夫人であるのは明白であり、そして二人の会話の中でどちらの言っていることが真実に近いかについても、アシンガム夫人に軍配が上がるのもまた明白である。
 しかしながら、アメリカの批評家達は不倫の当事者であるアメリーゴとシャーロットを擁護するアシンガム夫人を指弾するであろうし、マギーの道徳的純粋性を称讃するのだろう。いったいいつになったら小説をこんな風に読むことから解放されるのだろうか。
 そのことについて結論を出す前に、ヘンリー・ジェイムズが1対1の対決を〝戦闘〟として捉え、二人の会話を戦闘報告として書いているのだということをまず言っておかなければならない。
 マギーとアシンガム夫人のこの対決の場面は、他にもまして緊張感に溢れていて〝言葉による心理的戦闘〟を描いていると言っても過言ではない。数ある作品の中でもこの場面こそ、ヘンリー・ジェイムズの心理小説の最高の到達点と言ってもよい。
 会話は金色の盃をめぐって展開していく。マギーはそれがアメリーゴが以前からシャーロットを知っていて、親密な関係であったことの証拠だと言うが、その根拠を示さない。それが示されない限り、アシンガム夫人は金色の盃が何を意味しているのか知り得ない。
 マギーはアシンガム夫人を攻め立て、決定的な事実を聞き出そうとするが、アシンガム夫人は固い防御の姿勢を崩さない。マギーは「説明して事実を明らかにすること」をアシンガム夫人に求めるが、夫人は「説明して誤魔化してしまう」という立場を堅持しようとする。
 マギーはアシンガム夫人の言葉尻を捉えて、次々と攻め立てるが、アシンガム夫人はマギーが知ったことなど取るに足りないことだと知るや、攻勢に転じていく。マギーはなぜか最終兵器を行使できないでいるのだが、それはマギーが十分に真実を捉えていないからである。
 そのことをアシンガム夫人が見てとると、彼女はその品物がどのような証拠を示しているのかを知る必要性さえ振り捨てて、決然として金色の盃を床に投げつけて破壊してしまう。壊したところでそれが証拠としての性質を失うわけではないが、それは決定的に象徴性を失ってしまうのである。