第2章アメリカの構築(その4)
ボードレールは言葉の真の意味で〝近代的〟な詩人であった。ベンヤミンほどにそのことを熟知していた人は少ないだろう。それが一見芸術至上主義的とも思われる「コレスポンダンス」に、「危機に対して確固たる者であろうとする、ひとつの経験」を、ベンヤミンに読み取らせている大きな理由である。
そして近代とは〈非常事態〉が通常の状態となる時代ではなかったであろうか。先のタウシグの文章のなかで、「近代の衝撃に直面し、この危機への忍耐力を保ち続けようとして」の部分に、ベンヤミンの文章に対応したタウシグ自身の考えを読み取ることができる。
しかし、続く「詩は敗北を受け入れる姿勢で形成されるのだ」の部分がよく分からない。ベンヤミンの文章を参照しても分からない。ひょっとしてここにも誤訳が潜んでいるような気がするが確かめようがない。
タウシグは続いて次のように言うことで、トマス・サパタの叙事詩の解釈へと戻っていく。
「このような見解は、際だつような痛切さとともに、耕作機械の進歩、ラテンアメリカにおける化学肥料に基礎をおいた農業ビジネス、環境の破壊、大規模な解雇、裁判所と警察の機能停止、都市への強制的な移住、若い男性や女性の暴力的な増加といった小作農民の記憶の核心へとつながっているのだ。」
ここには「コレスポンダンス」とトマス・サパタの叙事詩という、似ても似つかぬものを結びつけようとする意志がある。一方は芸術至上主義的であり、一方は素朴な農民詩である。相反する二つのものを結びつけるのは、「類感呪術」という概念、そしてベンヤミンの言う「危機に対して確固たるものであろうとする、ひとつの経験」という言葉、さらには同じくベンヤミンの言う「想起のデータ」という考え方である。
さて、いささかボードレールに深入りしすぎたので、「アメリカの構築」そのものに戻ることにする。タウシグの関心はこのようにして、詩というものと歴史というものとの関係性に向かっていく。タウシグはヘイドン・ホワイトという詩人の、歴史の仕事についての言葉「究極的には、彼らが事前に考えていたことや、特に彼らの見解の詩的な本質に頼った歴史叙述のモデルや、概念であるにすぎない」を引いて、以下のような結論を導いていく。
「今一度、歴史の編さんを詩作としてとらえ直すべきだと考える。(中略)すなわち、詩人の言葉で歴史を記録し語るドン・トマスが備えているような感覚が必要なのだ。」
このようにタウシグの議論は、歴史学批判と詩というものの復権へと導かれていく。だが彼の関心はそこに止まらない。彼がもっとも関心を寄せるのは、「情報提供者」に関する問題である。
つまりトマス・サパタのような詩人が、コロンビアの片隅に存在していたとしても、記録者がいなければ彼の詩はどこにも伝わらない。存在していなかったのと等しいのである。重要なのは〝橋渡し〟を行う「情報提供者」だということだ。タウシグは次のように言っている。
「文化人類学はその実践がどれだけ多くを、他者の物語の語りの技芸に頼っているかについて無批判である――大いに。しかし実際には、それらの物語は語り部からではなく「情報提供者」から収集された科学的な観察として提示されたのだ。」
さらに
「近代性にとってきわめて重要なこの橋渡しの機能について、もっと多くが議論されてきてもよかったはずだ。なぜなら、近代的な文学の感覚――メタファーを効果的にする経験上の質――を承認することは、まさに農民や未開人の役割であり続けてきたからだ。」
タウシグが言いたいことは、文化人類学が恩義を負っているのは、農民や未開人たちの語り部と、記録者=情報提供者との遭遇に対してであるということであろう。それは「近代的な文学の感覚」=「メタファーを効果的にする経験の質」を、農民や未開人の語りを通して、近代人へと運んでいくのである。
難解な議論である。タウシグの議論の背景には、ベンヤミンの三つの論考が隠されている。「物語作者」「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」「歴史の概念について」がそれである。
私は三つの論考について、必要な部分しか参照できていない。それらを読むことでタウシグの議論はより了解可能なものとなるであろう。今後の私の課題である。
(第2章おわり)