●酒井健『ゴシックとは何か』④
次のテーマは「ゴシックの受難」である。16世紀のイタリア・ルネッサンスとドイツの宗教改革が、いかにしてゴシックを滅ぼしたかという歴史について語っている。この部分かなり駆け足で、早くゴシック・リヴァイヴァルのテーマに移りたい気持ちと、好きでもないルネサンス様式の建築やプロテスタントの教条主義について早く済ませてしまいたいという気持ちが出ていることを感じた。
まずイタリアのルネサンス。酒井はまず、ゴシック熱の冷却ということがあり、それは英仏百年戦争(1337-1453)とペスト禍(1348-50)がもたらしたものだと指摘する。百年戦争の主戦場は北フランスで、農村部の荒廃が都市部の疲弊をもたらした。大聖堂どころではなかったのだ。ペストもまた、フランスの全人口の3分の1を消滅させ、大聖堂建設を困難にさせた。
一方同じ頃、イタリアのフィレンツェが文化の創造都市として台頭してきた。フィレンツェは商業都市であり、そこでは合理的な美学が発達をみた。フィレンツェ大聖堂は反ゴシック美学の結晶であった。それを支配していたのは、幾何学性と現世主義であり、調和の美学であった。
宗教改革はドイツのマルティン・ルターによる免罪符批判に始まる。ルターの思想は「信仰のみ」「聖書のみ」という神との直接的な関係を打ち立てようとするものである。それは「ゴシック的な曖昧で豊饒な融合状況への批判」であった。またプロテスタントの理念は合理主義的な精神に支えられており、それは大航海時代における商工業の発達と競争がもたらした禁欲的な生産中心主義の勝利でもあった。
またルターの独語訳聖書はグーテンベルクの活版印刷術によって普及し、文字の価値を確立させた。中世の民衆は文盲でも大聖堂の図像によって聖書について学ぶことができたが、プロテスタントは文字を至上のものとし、ゴシックの図像を否定した。それが聖画像破壊(イコノクラスム)につながり、宗教戦争とも相まって各地でゴシック大聖堂が破壊されていく。
以上のような酒井の審美観からすればイタリアのルネサンス様式の建築物は、あまりに合理主義的、調和的であるし、それにつながる古典主義美学もまたあまりにも退屈なものであるだろう。また酒井の宗教観からすれば、ルターに始まる宗教改革のもたらした運動もまた、あまりに合理主義的で、狭隘で、教条的だったのである。だからもし、ゴシック・リヴァイヴァルというものがあるとしたら、そうしたものに対する反動として起きるしかないし、事実そうだったのである。
さていよいよゴシック・リヴァイヴァルのテーマに入る。酒井はこのテーマをイギリスとドイツ、フランスの場合の3つに分けて紹介している。私はこのテーマについてはケネス・クラークの『ゴシック・リヴァイヴァル』によって、イギリスのケースについて知るのみであった。
それはイギリスがゴシック小説の発祥の地であったことと深く関係していて、ゴシック・リヴァイヴァルといえばイギリスのことを除外して考えることはけっしてできないからである。そしてそのことは私のこの「ゴシック論」にも関係してくるのである。
ケネス・クラークの『ゴシック・リヴァイヴァル』は、ピクチャレスクの造園から説き起こし、前史としてのロマン主義文学の影響、そして決定的な一打となったホレース・ウォルポールのストロベリー・ヒルのことを強調する。クラークはゴシック・リヴァイヴァルを先導したのは文学運動であったと考えていて、ウォルポールの果たした役割を最大限に評価している。
酒井はそれより以前の17世紀に始まる〝ゴシック神話〟について触れている。「ノルマンディー公ウィリアムによるイギリス征服(1066)以前の時代、とくにサクソン人たちの王国の時代」の政治形態を理想視するゴシック神話である。
イギリスの歴史など何も知らないので、よくは分からないが、ゴシック・リヴァイヴァルが目指したものの根本に、イギリスの場合は政治的な要素が強く絡んでいたということを言いたいのであろう。
あとはピクチャレスクの造園や、ロマン派の影響、ウォルポールのストロベリー・ヒルなど、クラークの本と大差はないが、クラークが言及していない大事なことに酒井は言及している。
それはエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』が展開した美学についてである。