玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(11)

2019年01月22日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』⑤
 酒井はエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』に触れて、次のように書いている。

「エドマンド・バークは(1729-97)は、ロックの感覚印象論を継承し、美を快に、崇高さ(the sublime)を不快に結びつけた。この場合の不快とは、無骨さ、暗さ、陰鬱さ等のネガティヴな要素を持った対象に覚える印象のことである。ゴシックの大聖堂がこれらの要素の集大成であることは、すでに本書でも指摘しておいた。」

 バークの『崇高と美の観念の起原』については、私もこの「ゴシック論」ですでに書いた。その時はバークの美学をいわゆるゴシック・ロマンスと関連づけて考察し、ゴシック・ロマンスの通俗性が崇高の美学と矛盾することを指摘しておいた。
 今回初めてゴシック建築に直に触れ、その美しさに魅せられた者として改めて考えてみると、バークの崇高の観念は確かにゴシック大聖堂にそのまま当てはまるものであって、だとすれば、バークの美学がゴシック・リヴァイヴァルに与えた影響について考えなければならないのではないかと思う。
 これまでバークの美学はホレース・ウォルポールを初めとするゴシック・ロマンスへの影響については言われてきたが、ゴシック建築の復興に関連して論じられては来なかったからだ。そのことを私は知りたいと思う。
 また、『崇高と美の観念の起原』は、バークの時代まで未分化であった崇高の観念と美の観念とを截然と分かち、美を快の領域に、崇高を不快の領域に振り分けたとされるが、物事はそれほど単純ではない。
 酒井がゴシック大聖堂に不快の印象を与える崇高さを感得していただけなら、彼がここまでゴシック大聖堂に入れ込む理由がない。誰も不快なものを愛することなどできるわけがないからだ。酒井がゴシック大聖堂の崇高のなかに快の要素を感じ取ったのでなければならない。
 つまりそこには不快が快に変わる転倒の一瞬がある。そうでなければ私はバークの美学を〝崇高の美学〟と呼ぶことができない。バークが美と崇高の観念を振り分けただけならば、美学とは別に〝崇高学〟とでもいうべき領域を別個に立てなければならないが、バークの本はそのように書かれてはいない。
 本来不快なものである〝崇高〟が快に変わるとき、それまで〝美〟とされてきたものだけによって形成されてきた美学に新たな要素が加わるのでなければならない。それはだから近代における美学の転倒の形式なのであって、私がたとえば、パリのノートルダム大聖堂の後陣に張り出したフライング・バットレスのグロテスクな連なりに〝美しさ〟を感じてしまうのは、私もまた近代が体験した美学の転倒の内部に生きているからなのである。
 ここで、エドマンド・バークが崇高の要素として列挙している巨大さ、無際限、曖昧さ、深淵、グロテスクなどの概念を、ゴシック大聖堂に即して点検してみたい気持ちに駆られるが、残念ながらそんなことをしている時間が私にはない。酒井の断言によってそのことは裏付けられていることにしておく。
 それよりも酒井が強調しているゴシック・リヴァイヴァルにおける政治的要素ではなく、バークが示した美学の転倒がゴシック・リヴァイヴァルの本質にあるのではないかという問題を提起するに止めておこう。
 また酒井はイギリス・ゴシック・リヴァイヴァルの金字塔といわれる英国国会議事堂の細部の装飾を担当し、ゴシック・リヴァイヴァルの理論的指導者であったA・W・N・ピュージンという人が、カトリックに改宗してまでゴシックに入れ込み、発狂して早世したという話を紹介しているが、私の知りたいことはそのことに関連している。
 当然ゴシック・リヴァイヴァルはカトリックへの回帰の運動でもあったと思うのだが、ピューリタンの国イギリスにおけるゴシック・リヴァイヴァルとカトリックの関係性はどうなっていたのかという問題である。そのことは建築だけではなく、文学の方にも深く関わってくるので、私にとって大事なことなのである。

 エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(1999、みすずライブラリー)中野好之訳