●酒井健『ゴシックとは何か』⑦
ドイツのことはすっ飛ばす。イギリスのこと以上に分からないことばかりだからだ。ただ、酒井が「ドイツのゴシック・リヴァイヴァルは、祖国愛に貫かれた現象、言い換えればドイツの政治的統一を渇望する国民意識に導かれた現象だった」と書いていることだけを紹介しておく。ドイツ・ゴシック・リヴァイヴァルは国民国家としてのドイツの象徴であったわけで、政治的要素が強く、芸術的な精神に欠けるというところか。だから酒井は有名なケルン大聖堂について、それを「死せる石塊」と吐き捨てている。酒井にとっても愉快なテーマではなかったのだ。
フランスにおけるゴシック・リヴァイヴァルは、イギリスの場合に比べてはるかに分かりやすい。酒井はその源泉を、フランス革命の行き過ぎに対する反動と、革命後も支配的であり続けた古典主義美学への反抗に求めている。
1789年のフランス革命は、ルイ16世が処刑された1793年頃から恐怖政治の時代へと突入していき、破壊的な非キリスト教運動が展開された。当時大聖堂や修道院は略奪・破壊に晒され、ノートル=ダム大聖堂も多くの彫像や彫刻を失った。ゴシック・リヴァイヴァルはそうした行き過ぎに対する反省としての意味を持っていた。
フランスは無神論とカトリックの国である。分かりやすさはそこにあって、この二つのものの間の振幅の大きさの範囲に、ゴシック・リヴァイヴァルに関わる事柄が入ってくる。酒井はフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの『キリスト教精髄』を当時のカトリックへの回帰の典型とみているが、まさにゴシック・リヴァイヴァルはカトリック・リヴァイヴァルそのものであった。後のJ・K・ユイスマンスは自然主義文学から神秘主義へと変貌した作家であるが、彼の場合はストレートに、無神論からカトリックへの転向として位置づけられるであろう。
ヴィクトル・ユゴーは政治的には自由主義の人であったが、フランス革命によって破壊され、その後荒廃にうち捨てられていたノートル=ダム大聖堂の復興を呼び掛けることになる。そこにはカトリックへの帰依の姿勢は見られないが、より近代的な姿勢、歴史的遺産を修復・保存しようという熱意が読み取れる。
ユゴーはそのために『ノートル=ダム・ド・パリ』を書いたのだと言っていて、その中にはノートル=ダムの歴史を語り、復興の必要性を説いた第3編が含まれる。この件については『ノートル=ダム・ド・パリ』を実際に読むときに考えてみることにしよう。
何より大切なのはそのような思潮の中で、実際にノートル=ダムの修復がなされたことであり、それを行ったのは建築家ヴィオレ・ル・デュックであった。私が会いに行ったキマイラ達もまた、デュックによって再現されたものである。彼らはまだ生まれてから200年も経っていない新しい彫刻だったのだ。
馬杉の『パリのノートル・ダム』は、デュックが再現したキマイラ達の原型になった17世紀の素描の図版を掲げている。ガーゴイルもそうだが、それらを見るとあまりにも小さすぎて、おおざっぱな外形しか分からない。だからヴィオレ・ル・デュックは実際にあったものを忠実に再現したわけではなく、自らの想像力によってあの千変万化の怪物像を造り上げたのであった。
小さすぎてよくわからない
デュックもまたユゴーのような自由主義の人であって、彼の考え方にもカトリックへの回帰の姿勢は見られない。酒井はデュックの自由で柔軟な発想の証として、デュック自身の次のような文章を引用している。
「我々にとって大切なのは、我々の習慣・気候・国民性に対応して、さらには科学と実用的知識の分野で得られた進歩に対応して、建築物を造るということである。」
このような考え方をデュックは持っていた。ゴシック・リヴァイヴァルとはいっても、そこには懐古的な要素はなく、極めて近代的な発想に貫かれている。フランスにおけるゴシック・リヴァイヴァルはそのような性質を持っていた。その視点からもう一度キマイラ達に立ち戻らなければならないが、その前に一つ、デュックの考え方を引き継いで、見事に実現させたのがエッフェル塔であり、それはフランスにおける「ゴシック・リヴァイヴァルの一頂点であり精華」であると、酒井が言っていることを紹介しておく。
セーヌ川からビル・アケム橋とエッフェル塔を望む