玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(24)

2019年02月06日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス「ノートル=ダム・ド・パリにおける象徴表現」②
 しかしユイスマンスの「ノートル=ダム・ド・パリにおける象徴表現」は、キリスト教に縁のない者にとってはまったく分からないことだらけで、彼が象徴を読み解いていく手続きに興味を喚起されても、私には〝象徴するもの〟も分からなければ、〝象徴されるもの〟も理解の範囲を超えている。
 たとえば、ユイスマンスが次のように言う時、私にはそうした事実すら把握することができなかったことを白状する。ノートル=ダムの内部にいる時間が短かったことなど言い訳にならない、きっと一日中そこにいてもユイスマンスが指摘していることに気づくことはなかったであろう。

「ノートル=ダムの身廊内に身をおいて気づくことがある。内陣の軸がかるく左方にぶれていることである。」

 ユイスマンスによればこのようなぶれは、中世のほとんどすべての大型聖堂において認められることで、であるならば、「このぶれは意図的であって、存在理由があった」ということになる。ユイスマンスはすぐにその謎を解いてみせる。それはイエスの十字架上の死に関係している。

「それは、ヨハネによる福音書の一節「そして、頭を傾けて、息を引きとられた」のいわば、建築学用語による翻訳であった。」

 このように聖書の中の多くの言葉は、建築物の中に象徴として置かれているのである。「頭を傾けて」というところが、内陣のぶれとして表現されているわけだ。それは十字架上でのキリストの苦悶の象徴なのだ。
 しかし、ユイスマンスの時代にこのような解釈が一般的であったわけではない。物質主義的考古学の徒は、それを中世偉人の技術的未熟が原因だと言ってはばからず、そこには何の意味もないと言っていたらしい。ユイスマンスは、このような技術論的見解を激しく批判している。
 このようにユイスマンスは、ノートル=ダム大聖堂の、外部、内部、彫像から扉口の彫刻まで、あらゆるところに象徴を読み取っていくが、我々にとって分かりやすい部分だけを紹介しておこう。
 たとえば「屋根は「愛」の象徴である」と言う。屋根は「聖堂を雨から守る役目を果たす、瓦の一枚一枚は、異教徒の侵害から教会を守る兵士たちである。」といった具合である。
 また「窓」は「この世の空しさに対しては閉ざされ、天の賜物に対しては開かれていなくてはならぬ、われら人間の感覚の象徴である」と言う。窓はステンド・グラスを通して、太陽の光=神の光を通すが、風、雪、雨など=もろもろの異端邪説は退けるのだからである。
 内部はどうか。扉口から入り、身廊を経て内陣に進む過程は、修行の生の三段階を象徴しているという。つまり、入り口の闇が表している「浄罪の生」、次に内陣の方へ進むにしたがって照らし出されてくる「観想の生」、最後の祭壇は「神秘的合一の生」を象徴しているのである。
 ユイスマンスにとってノートル=ダム・ド・パリは、ユゴーの言う「石の書物」に他ならない。彼はそれを解読することによって、大聖堂の宗教的意味を明らかにする。ユイスマンスはそのような象徴の意味するものを当時の民衆も理解していたというが、果たしてどうか。
 最後にユイスマンスはそれとは別に、一部の専門家にしか理解できない、秘密の象徴表現がノートル=ダムには存在するという。それは占星術や錬金術に関する象徴表現であって、それらに通じた一部の司祭が持ち込んだものではないかというが、はっきりしたことは分からない。
 詳しいことは書いても理解できないので省略するが、ユイスマンスは宗教的な主題の中に本来あってはならぬ意図が隠されているという。そして、そんな要素を持った大聖堂は他にはないと言い、「ノートル=ダム・ド・パリは、同類の大聖堂よりも、ずっと神秘的であり、おそらくはずっと豊かな内容を持つが、純粋さにおいて劣る」と結論づけている。より純粋なシャルトル大聖堂を彼が愛した理由である。
 ところでユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』には、クロード・フロロが医学や占星学を全否定し、錬金術こそがもっとも偉大な学問であると力説する場面があり、実際にフロロは大聖堂の自室に実験道具を揃えて、錬金術の研究に地道をあげていたのだった。なぜこんな場面があるのかと思っていたが、ユゴーはノートル=ダムの秘密の象徴表現について知っていたのである。
(この項終わり)

 

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建築としてのゴシック(23)

2019年02月06日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス「ノートル=ダム・ド・パリにおける象徴表現」①
 これから取り上げるユイスマンスのエッセイは、彼の死後発刊された『三つの教会と三人のプリミティフ画家』の中の一編であり、大変短いものである。短いがそこにはユイスマンスのゴシック大聖堂に対する、基本的な考え方が確固として示されていて、今日でも読むに値する一編である。
 ユイスマンスはまず、フランス19世紀ロマン主義によるゴシック・リヴァイヴァルによって、ノートル=ダム・ド・パリへの評価が復活し、「称賛の声が澎湃として起るまでになった」ことを歓迎している。それに貢献した人物としてユイスマンスが名を挙げているのは、ヴィクトル・ユゴー、モンタランベール、ヴィオレ=ル=デュック、ディドロンの四人である(ユゴーとデュック以外の二人は未詳)。
 ユイスマンスはユゴーが言ったことと同じようなことを言っているが、それはユゴーの直接的な影響なしには考えられない。

「あの時代の芸術にあっては、ガラスや石といった物質の形において、もろもろの感情や思考を表現しようとする目的を自己に課したのである。いわば、自分たち用の文字体系を創造したのだった。一基の彫像、一枚の絵画が、単語に相当するものとなり、その集まりが、パラグラフ、文章に当たるものとされたのだった。」

 このエッセイの最後にもユイスマンスはユゴーに対して賛辞を送っている。

「ヴクトル・ユゴーのような小説家は、この構造をもとにして、多少とも真実めいた飾りつけを創造し、全部が全部まったく想像に成る人物をそこに住まわせた。それにしても、当時、中世の象徴表現についてなにがしかの感受力を持っていた詩人は、かれひとりだった。」

 ユゴーはしかし、そうした象徴表現について深く探究しようとする姿勢は見せていないが、ユイスマンスは象徴表現の解読を試みる。それはユゴーの努力にも拘わらず、当時の建築家、考古学者が陥っていた「歴史的建造物の物質的研究」に対して飽き足りないものを感じ、そのような研究に対して批判の眼を向けていたからである。
 象徴表現とは「一つの彫像や図像を、何か他のものを示すしるしとして用いる技術であって、中世の偉大な着想の一つであった」と、ユイスマンスは言っている。そうした中世の表現手法を研究することなしに、物質としての大聖堂を研究するだけでは、何も理解できないということを言いたいのだ。
 しかもそれは単なる技術や手法に止まるものではない。ユイスマンスによればそれは「紙という源泉から出てきた事実、神ご自身の語られた言語であるという事実」でもあるのだ。ユゴーが思想表現としての石の建築ということを言ったのからさらに進んで、ユイスマンスはそこに神自身の言語を読み取ろうとしているのである。
 さらにユイスマンスは「象徴表現は、聖書という大地に生えた鬱蒼とした大樹」であり、それは聖書ばかりでなく伝説集や聖書外典をも、文章の替わりに彫刻や絵画を用いて表現し、「堂内にキリスト教教義の諸真理」とともに封じ込めたのだという。ユイスマンスはそのような基本的認識を以下のように書き付けている。

「要するに、カテドラルは、一つの全体、総合なのであった。いっさいを含むものであった。聖書であり、教理問答であり、道徳の教室であり、歴史の講義であった。知識の乏しい人たちのため、目に見える像を文章の代用にしたのだった。」

 これがユイスマンスの象徴表現解読の基本的考え方であり、このエッセイより10年前に書かれた、シャルトル大聖堂への賛美に貫かれた『大伽藍』を書く基本的スタンスでもあった。
 ここでユイスマンスが「知識の乏しい人たちのため」と書いているのは必ずしも正確ではない。本来は〝文字の読めない人たちのため〟としなければならない。あれほどに彫像や図像にこだわり、文字なしでいっさいを語り尽くそうとした理由は、その対象が文盲の人々であったからだし、それほどに当時の識字率は低かったのである。

 J=K・ユイスマンス『三つの教会と三人のプリミティフ派画家』(2005、国書刊行会)田辺保訳

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