玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(26)

2019年02月09日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』②
 以上のような翻訳の事情から、ユイスマンスの『大伽藍』について多く書くことはできないかも知れない。小説としての『大伽藍』をそのストーリー展開において楽しむことはけっしてできないし、ユイスマンスが小説としての結構を無視して、ひたすら積み上げていく蘊蓄に関しても、彼が深みに入れば入るほどそれは私にはさっぱり分からないものになってしまうからである。
 第1章は早暁の闇の中から主人公デュルタルの眼前に、シャルトル大聖堂が姿を現してくる場面である。この場面は必ず暁闇の中に始まらなければならない。大聖堂の全貌がいきなり主人公の目の中に飛び込んできたのでは、この神秘な感覚が表現されないからである。

「ようやく萌しはじめた暁の光の中で、石の大樹林は徐々に森としての統一を失いつつあった。闇は消え去る気配を示しつつも、なお物の輪郭をおぼろに溶かしていて、物の形は、ようやく眼に著くなりながら、すべて微妙に歪んでいる。森の下の方には、吹き払われてゆく暁闇の中に、樹齢数百年の白い寓話の大樹の幹が、井戸にでも植えられたように、緊密な縁石で締めつけられながら高みへと翔け上がっている。樹の根元ではもうほとんど半透明にまでなった夜は、高みへ昇るにつれてその厚みを増し、大樹から枝々が分かれるあたりは、まだ闇に包まれて定かには見えない。」

 大聖堂の顕現である。まさにそれは〝顕現〟と言うべきで、闇が支配しその輪郭しか明らかでなかったその姿が、暁闇の上昇(逆に言えば足元から明るくなっていく過程、でもここは上昇でなければならない)とともに、少しずつ見えてくるのである。
「大樹林」であるとか、「森」であるとか、あるいは「樹齢数百年」であるとか言っているが、それを本物の樹林と取り違えてはならない。これらはすべて建築物としての大聖堂の喩として使われている言葉であって、それは最初の「石の大樹林」という言葉によって明らかである。
 しかもこの大聖堂は森の木立の中にあるのではむろんない。それはシャルトルの街のど真ん中にある広場に立っているのである。むしろ大聖堂自体が森林であり、樹林であり、巨大な大樹なのだ。
 この見事なオープニングはゴシック建築を眼前にした者の感ずる、驚異に満ちた美的体験を余すところなく伝えている。残念ながら私の見たパリのノートル=ダム(シャルトル大聖堂もノートル=ダムなのだが)は、真昼の陽光にさらされていて、このような幽冥の感覚を私に与えることはなかった。
 森林をゴシック大聖堂の喩として捉えたのは、酒井健によればゴシック・リヴァイヴァル期のシャトーブリアンの『キリスト教精髄』であった。

「ガリアの森が我々の父祖の寺院のなかへ導入されたのだ。我々のナラの森林はかくしてその聖なる起源を保ったのだ。樹葉の繁茂を彫り込んだ石造り天井、壁を支え、切断された幹のように突如終わる柱、石造り天井の冷気、内陣一帯の闇、薄暗い翼廊、隠れた通路、低く作られた扉、これらすべてがゴシック教会堂のなかで森林の迷宮を再現させている。これらすべてが森林の宗教的な恐ろしさを、神秘を、神々しさを感じさせるのだ。」(酒井健『ゴシックとは何か』より孫引き)

 シャトーブリアンは大聖堂の内部を太古の森の再現になぞらえてるのだが、それは森林というものがその内部においてこそ体験されるものだからだ。森林の外部を展望することはできても、それを体験することはできない。
 しかしユイスマンスは、シャルトル大聖堂の外観をも森林に譬えている。実は私の実感もそのようなものであって、パリのノートル=ダムを訪れた時に、内部をよく見なかったせいもあるが、そこに森林をイメージしたのは北側の側面に廻った時だった。パリのノートル=ダムに大きな尖塔は一つあるだけだが、側面には小さな尖塔がいくつもあって、小規模ながら樹林を思わせるのであった。

コメント
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