玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(25)

2019年02月07日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』①
 私はこのユイスマンスの『大伽藍』を、高校生の時に地元の図書館で借りて読もうとしたことがある。それは桃源社「世界異端の文学」の一冊で、当時私はフランス文学にかぶれ始めていて、特に〝異端〟とか〝悪〟とかいう言葉に敏感に反応したからだ。
 ユイスマンスがどういう作家か知りもせずに、『大伽藍』を読もうとしたのだが、まったく興味が持続せず、その退屈さに辟易してすぐに投げ出してしまった。『さかしま』や『彼方』の作家を高校生が読もうとしたってそれは無理というものだろう。
 しかし今回、平凡社ライブラリー版で初めて読んでみて、この小説を〝異端〟というのはやはりおかしいのではないかと思わざるを得なかった。これはユイスマンスが晩年に無神論的デカダンスからカトリックへ回心する過程で生まれた作品であるからだ。カトリックのどこが〝異端〟だというのだろう。それこそユイスマンスの〝正統〟への回心の書ではないのか。
 しかし完全に〝正統〟として位置づけられるかというと、そんなことはない。ユイスマンスのカトリック信仰への傾斜は、ゴシック建築を代表するシャルトル大聖堂への美的な興味、あるいはもっと進んでシャルトル大聖堂の美しさへの陶酔にはじまっていることが明らかだからだ。
 完全に回心した後のユイスマンスがどうであったかは知らないが、回心への過程にあっては審美的なものがすべてに優先していて、そのことは純粋に〝異端〟の文学と呼びうる、『さかしま』や『彼方』と共通しているのである。カトリックの正統からすれば美学的なこだわりや偏愛は〝異端〟と呼ばれてもおかしくない。
 ところでこの出口裕弘の翻訳は完約であるどころか、原著の半分にしかならない抄訳であって、何でこんな翻訳がまかりとっているかと言えば、それは1966年の桃源社版を踏襲しているからでる。
「世界異端の文学」はシリーズ物で、一冊のボリュームに制限があったから完約がむずかしかった事情は分かる。しかし、ユイスマンスの作家としての評価が定まってきた今日の日本で、この重要な作品が抄訳のまま再版されるということが納得できない。できることなら出口に完訳して欲しかったが、今となっては無理であろう。
 また抄訳の方針として、宗教文学的な部分を出口の趣味の問題もあって、ほとんど省いたということだから、この翻訳ではこの作品を完全に理解することは不可能なのだ。だから美学的な偏向としての回心という見方も、本当にそうなのかという疑問に付されてしまう。
 だがこの作品によって、ユイスマンスのシャルトル大聖堂に対する強い愛着といったものは読み取れるわけだから、今のところはそれに甘んじておく他はないし、そのような見方が間違っているという確たる証拠もない。
 ユイスマンスという作家は高踏的で、取っつきにくく、難解な作品を書いた作家と思われがちだが、実はそんなことはまったくない。『さかしま』や『彼方』を読んで、その読みやすさにびっくりして、先入観を改めたことを思い出す。
『さかしま』にしても『彼方』にしても、小説というよりはユイスマンスの蘊蓄を傾けたエッセイのようなもので、ペダンティックな面は多分にあるが、その議論を追っていくことはそれほどむずかしいことではない。
 それは『大伽藍』にも当てはまることで、高校生の時に読めなかったのはやはり、ゴシック大聖堂のことなどまったく知りもしないし、興味もなかったからで、必ずしも難解であったからではない。
 それにしてもユイスマンスの作品は、小説としてのストーリー展開などなきに等しく、どこを切り取って読んでも読めるようにできている。それが無惨な抄訳を生むことになったのだとしたら、それもまったユイスマンスの責任に帰せられるのかも知れない。

J=K・ユイスマンス『大伽藍』(1998、平凡社ライブラリー)出口裕弘訳

 


 

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