玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(2)

2020年02月05日 | 読書ノート

 問題なのはこの最初の遭遇の後、ヘンリー・ジェイムズが主人公ロングヴィルとヴィヴィアン母娘との偶然の出会いを、むやみに多用しすぎていることである。まずロングヴィルは親友ゴードン・ライトに、バーデン・バーデンに呼び寄せられる。彼が恋をしているので、その対象である女性が結婚に相応しい相手かどうか、評価して欲しいというのである。

 ロングヴィルはバーデン・バーデンに向かい、そこでライトの意中の女性がアンジェラであることを、偶然の出会いによって知ることとなる。この第二回目の遭遇は小説のプロットにおいて欠かせぬもので、ここで他の主要な人物(と言ってもあとこの二人しかいないが)ブランチ・エヴァースとラブロック大尉も登場してくるので、許容範囲としなければならない。

 いただけないのは第三回目の遭遇である。ロングヴィルが「アンジェラは結婚に向いていない女性だ」と評価したことから、バーデン・バーデンからゴードン・ライトが去り、次いでヴィヴィアン母娘が去ったため、目的を失ったロングヴィルはあちこち放浪したのち、フランスはル・アーヴル近郊のブランケ・レ・ガレ(架空の地名)を訪れる。

 そこで彼はまたしてもヴィヴィアン母娘と偶然の出会いを演ずることになる。この三度目の出会いで、ロングヴィルがアンジェラに恋をしていることを自覚し、それが二人の婚約にまで発展していくので、小説上必要な出会いであることは間違いないが、なにも偶然にゆだねることはないだろう。

 こうした偶然の遭遇を多用するのは、通俗小説の手法であり、リアリズム小説のそれではない。いかに彼の作品が一九世紀的リアリズムのそれから遠いものであっても、彼の小説がリアリズムの範疇にあることは紛れもない事実である。偶然の出会いは小説においてただ一度だけ許されるだけなのであって、それ以上の偶然は小説の品位をおとしめる。

 たとえば、『使者たち』でもヘンリー・ジェイムズは、一度だけ偶然の出会いの手法を使っている。主人公ランバート・ストレザーが使者としての使命に疑問を抱き、ひとりパリ郊外へ出かける時に、チャド・ニューサムとヴィオネ夫人との泊まりがけの密会の現場に遭遇する場面がそれである。そこがどこかは特定されていないが、その場所はストレザーが

「行きあたりばったりに汽車に乗り、やはり行きあたりばったりに下車した」フランスの田園地帯のどこかであり、そこで二人と出会うなどという可能性はまず絶対にないに等しい。それでもここは『使者たち』一編を左右する重要な場面であって、一度だけならそれも許される。

 しかし『信頼』では、それが一度ならず二度訪れる。小説を進めるためとはいえ、これはいただけない。またその結果、この小説は観光地巡りのような様相を呈してしまう。まずはイタリアのシエナ、次にドイツのバーデン・バーデン、そしてフランスのル・アーヴル近郊の海水浴保養地、最後にヴィヴィアン母娘が住むのはパリのシャンゼリゼ通りである。

 結果この小説は働かなくても贅沢な生活ができ、世界中遊び歩くこともできる有閑階級の男女が有名な観光地を巡りながら、恋愛遊戯を繰り広げる不埒な作品と思われてしまいかねない。テーマはそんなところにあるのではなく、タイトルが示すように、ロングヴィルとゴードン・ライトとの親友同士の間の〝信頼〟の破綻と再生にあるというのに……。

 アメリカの裕福な家庭に育ったヘンリー・ジェイムズは、子供の時から親に連れられてヨーロッパ各地を訪れているが、その楽しかった記憶を小説の中で再演してみたいという気持ちは分かる。しかし賭博で有名なバーデン・バーデンはないだろうし、必ずしも大金持ちではないヴィヴィアン母娘を、パリの一等地であり家賃もべらぼうであろうシャンゼリゼに住まわせることはないだろう。

 先にも言ったように、この作品は恋愛遊戯を描いた遊興小説ではない。恋愛が絡んでいることは確かであるが、そのテーマはあくまで〝信頼〟あるいは〝信義〟であって、ロングヴィルとライトとの間のそれが重要なのである。ならば、こんなに高級そうな観光地ばかりを舞台にする必然性はまったくない。

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