玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(4)

2020年02月13日 | 読書ノート

 以上のような結論の前に「動いているけれど、生き物ではないもの、思想を生むけれど、精神ではないもの、悟性が形を持ったものとしては捉えることのできない生きた抽象物で、どこにも存在しないけれど、どこにでもみられるもの」という、《数》についての定義が行われている。

《物質》をしか信じない者にとっても、《数》に立脚しなければ人間の生そのものが成り立たない。《数》は物質ではないがどこにでもあり、実在物ではないが「生きた抽象物」なのである。《数》は《精神》そのものではないが、《精神》によって生み出された概念である。

《数》を信じないではいられないというのであれば、《神》もまた信じないで済ませることはできない。《数》が《精神》が生み出す概念であるならば、《神》もまたそのようなものとしてある。「悟性が形を持ったものとしては捉えることのできない生きた抽象物」が《数》であるならば、《神》もまたそのようなものであると言わざるを得ない。

 また、《数》と《精神》の関係が《物質》と《精神》の関係に等しいということは、《物質》もまた《精神》によって生み出された概念であるということを示している。《物質》そのものというものは存在しない。《物質》もまた《精神》にその存在条件を負っているということになる。

 こうした精神一元論が興味深いのは、物質の原理によって人間の精神過程、あるいは生一般を説明することが不可能であるという事実があるからである。そういう意味で『セラフィタ』での議論、スウェーデンボリの議論は必ずしも終わってしまっているわけではない。ただし、神義論を除いては……。

 私は《数》は信じるが《神》は信じない。《数》は人間にとって信仰において存在するのではなく、「数だけが区別し、性質を与える」(『セラフィタ』の議論の中の言葉)ことができるのならば、それが実際に人間の中で稼働しているが故に、それを信じることができる。しかし《神》は必ずしも稼働しているわけでもないし、信仰においてしか存在できない概念であるからである。

 結局、『セラフィタ』の議論においては、神義論以外の部分にしか興味深いものは残っていないのかも知れない。それ故にこの議論に続く第五章別れ、第六章天国に至る道、そして第七章昇天と続く部分は、急速にリアリティを失っていく。

 それはとても残念なことではあるが、バルザック以外のいったい誰が、両性具有者の昇天などというものを夢想できただろう。そんなものは夢想できても、描写することなど不可能なのだ。バルザックの一昔前の宗教絵画ならそれを描けたかも知れないが、バルザックの時代にそれを描ける画家もいるわけはないし、作家もいるはずがないのである。

 邦訳本224頁に載っている挿絵がその困難を語っている。それはほとんど漫画の世界の俗悪を体現してしまっている。この挿絵に比べれば、まだしもバルザックの描写の方がましであろう。以下の描写を奇跡的な天体現象を描いたものとして読むこともできるからだ。

「あたかも不滅の軍団が行進を開始し、螺旋状に展開するかのように、大きな動揺が生じた。もろもろの世界は烈しい風に吹き払われる雲のように渦を巻いた。物すごい速さであった。

不意にヴェールが裂け、二人は、はるか上方に、輝く星のようなものを見た。物質の星の中で一番明るいものも比較にならぬほど明るい星であった。それは天から離れ、絶えず稲光しながら、雷のように落ちてきた。すると、これまで二人が《光》だと思っていたものさえ影が薄くなるのであった。」

 両性具有者はこうして《霊》となり、神に召されていくのであるが、なぜ彼女(彼)は昇天しなければならないのか。『セラフィタ』冒頭の山岳描写の中に、すでに〝昇天〟のモチーフは現れていたのであるが、もしそれが神によって本当の聖別を与えられるためというのであれば、それは少し違うだろう。

 両性具有者は性を持つ人間の不完全性を超越した存在である。男であること、女であることは、不完全な人間の存在形式であり、両性具有者こそが両者が合体した完全な人間と言えるのである。ならばセラフィタ(セラフィトゥス)はすでに聖別されているのであり、神聖な存在になるために〝昇天〟する必要などあったのだろうか。それが私の『セラフィタ』に対する疑問点である。

(この項おわり)