セラフィタ(セラフィトゥス)に愛を拒絶されたウィルフリッドは、彼女(彼)の中に不可思議な存在を感じ取り、彼女(彼)について訊ねるために、ミンナの父親ベッケル牧師のもとを訪れる。
ベッケル牧師は「スウェーデン館」に、父母の時代からの使用人ダヴィッドと暮らすセラフィタ(セラフィトゥス)の生い立ちについて、二人に話す。ベッケル氏によれば、彼女(彼)はスウェーデンの神秘思想家スウェーデンボリに心酔した父母が、ノルウエーにやってきて建てた「スウェーデン館」に残した子供なのであった。
父親はセラフィッツ男爵といって、スウェーデンボリに最も愛された弟子であり、母親は女性の中に《天使霊》を求める男爵のために、スウェーデンボリが幻視の中に探してきた、ロンドンの靴屋の娘だという。二人は「スウェーデン館」で世に隠れて暮らし、セラフィタ(セラフィトゥス)という子供を授かるのである。
セラフィタ(セラフィトゥス)が生まれた日、スウェーデンボリがヤルヴィスにやってきて、その子に聖別を施したという。彼女(彼)は人間の子というよりも、スウェーデンボリの思想が血肉化された姿なのである。この辺からこの小説は思想小説、あるいは観念小説としての性格を色濃く帯びていく。
ベッケル氏とウィルフリッドとミンナは、そんな不可思議なセラフィタ(セラフィトゥス)に質問するために、「スウェーデン館」を訪れる。「聖所の雲」と題された第四章は、セラフィタ(セラフィトゥス)による思想表現の場面であり、死を前にした彼女(彼)の最後の言葉が発せられるこの小説の山場となる。
もはや死を前にして食事をとることもしないセラフィタ(セラフィトゥス)が、激しい衰弱にも拘わらず、ここで長広舌を振るうことの不自然をあげつらうこともできるだろう。しかし『セラフィタ』はリアリズム小説ではなく、幻想小説なのであるから、そんなことを言っても始まらない。
そこで展開される議論はバルザックが受け止めたスウェーデンボリの思想の開陳であり、そんな議論をうら若い娘(青年)ができるはずがないというのも、リアリズムを信奉する者の無意味な非難でしかない。それよりも両性具有者の言葉が思想の言葉として語られるということ、あるいはバルザックが思想の言葉としてセラフィタ(セラフィトゥス)に語らせているということに注目すべきである。
この作品が単に幻想小説というに留まらず、思想小説でもあるということは、そうしたバルザックの意図したところによっている。バルザックがスウェーデンボリの思想をどこまで信じていたか、またはそれをどこまで正確に伝えているかというような問題は、読者にとってそれほど重要なことではない。
それよりもセラフィタ(セラフィトゥス)が地上界を超越した霊の言葉で語っていること、そのことを重視したい。両性具有者の愛のドラマと思われたこの小説は、ここで両性具有者のための思想表明のための小説に転化する。『セラフィタ』は両性具有者の肉体性を消し去り、そのセクシュアリティさえも消去してしまう。
そのために『セラフィタ』は両性具有者などという危険なテーマがもたらす危機をここで回避することができる。『セラフィタ』は滑稽で俗悪な小説に陥ってしまう危険を迂回するのである。だからこの小説は、思想小説とならざるを得なかった幻想小説と位置づけられるだろう。
スウェーデンボリの神秘思想は、いくつかのテーマにわたって、セラフィタ(セラフィトゥス)によって語られるが、そのすべてが荒唐無稽というわけでもない。霊肉二元論で、物質の側の勝利を言うものに対する批判として、《数》の問題が取り上げられるところなどは、今日でも傾聴に値するものがある。セラフィタ(セラフィトゥス)は言う。
「あらゆるものが《数》によってのみ存在するのです。《数》がなければ、あらゆるものがたった一つの同一の実体になってしまいます。数だけが区別し、性質を与えるからです。《数》とあなた方の《精神》との関係は、あなた方の《精神》と物質との関係と同じです。」