●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』⑥
エドマンド・バークは崇高の観念を構成する要素をたくさん挙げているが、その中でもゴシック建築が喚起する情感に関わるものをいくつか拾ってみよう。まずは「驚愕」である。バークは「驚愕」を定義して次のように言う。
「「驚愕」とは或る程度の戦慄を混えつつ魂のすべての動きが停止するような状態を言う。」
それは同時に「崇高の最高度の効果」であり、それの弱い効果が「嘆賞、尊敬、敬意」などだという。ゴシック建築のあの極度の昇高性を前にして「驚愕」を感じない者があろうか。そしてそれは、聖母マリア像を眼にした時には感じ得ないものであることを確認しておかなければならない。
そして何よりも「恐怖」である。「恐怖」は崇高の観念にとって最も重要な要素であり、これから挙げていくものの中には「恐怖」に還元される性質のものが多く含まれる。バークはだから次のように言うのである。
「疑いもなく恐怖は公然と隠然との違いはあろうが、必ずすべての事例において崇高の支配的原理なのである。」
「恐怖」はシャトーブリアンも感じていたものであったし、おそらく暁闇の中に浮かび上がるシャルトル大聖堂の「刀身」もまた、ユイスマンスがそこに「恐怖」を感じ取ったゴシック建築の大きな特徴であったに違いない。。
興味深いのは次の「曖昧さ」である。原語はambiguity、バークがここで暗闇の中での危険に言及していることから、それはむしろ〝不分明〟と訳すべきと思われる。それは「恐怖」に由来するものであり、我々に恐怖をもたらす幽霊のような存在は、闇の不分明の中に出現するのだからである。
ここでバークはより興味深いことを言っている。たいていの宗教において、寺院は小暗いところに建てられるし、偶像はそんな寺院の奥所に置かれるというのである。バークはここで未開人の宗教や異教のケースを想定しているのだが、日本の仏教でも同じことが言えるし、ゴシック大聖堂内部の暗さもまた同じ目的を持っていると言える。その目的とは不分明な空間に聖なるものを安置することで、民衆に対して畏怖や威圧感を感じさせることである。
しかしユイスマンスがシャルトル大聖堂に見る聖母像は、そのようなケースに当てはまらない。それはステンド・グラスをはじめ至るところに存在しているし、決して不分明の中に隠されてはいない。第一にそれは「恐怖」の対象ですらない。キリスト磔刑図画が恐怖を喚起するのとは対照的である。
さらに「広大さ」について。「広大さ」の三つの要素、「長さ」「高さ」「深さ」の中で、もっとも崇高に結びつくのは「深さ」であろうが、それは上から見下ろした時の「高さ」に還元される観念である。それも「斜面の面よりも垂直な面の方が崇高を形成する上で一層強い働きを演ずる」のである。その場合にはゴシック建築の垂直的な昇高性がそれに該当する。
次の「継起と斉一性」は「人為的無限を作り出すもの」と説明されている。「継起」と「斉一性」も人工的なものであって、つまりそれらは建築物を前提とされて、そこに登場してくるのだ。
「継起」とは建築においては列柱のようなものだと考えればよい。列柱のように同じ形のものが連続して続いていくこと、その連続性が感覚にとっては境界を越えて続くように思われることが条件となる。さらに「斉一性」とは列柱の一本一本に変化があってはならないということを意味している。変化は想像力の働きを妨害するからである。
ゴシック大聖堂にとっては同じ構成要素の繰り返しは、外観にも内観にもよく見られるスタイルである。私がパリのノートル=ダムに見た、北側側面から後陣を廻って左右対称的に南側まで続いていく「継起と斉一性」がそれである。もちろんそれは内部の構造、身廊と側廊とを分かつ列柱や、内壁の柱-ステンド・グラス-柱-ステンド・グラスという繰り返しの構造に規定されているわけだ。
ノートル=ダムにおける「継起と斉一性」
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