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フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『白痴』(2)

2021年02月14日 | 読書ノート

 ほんとに三つ巴がこの小説の根幹をなしているのであれば、第1部と第2部の間にあったはずの、三人の6か月にわたるモスクワ滞在について、ドストエフスキーはなぜ一切を省略したのだろう。そこで何があったのか、ムイシキンとの結婚を直前にしてナスターシャが逃げ出したことは、他のところで仄めかされているが、なぜそんな大事なことを省いてしまったのだろう。

 本来ラストシーンにつながる重要な伏線はそこで張られるべきなのであり、そうでないと第4部のラストシーンの本当の意味が明らかにならないのではないか。しかし、そんな大事な場面を省略したということは、それを作者のミスや不注意と考えるわけにはいかないということを逆に示している。意図的な省略に決まっているのだ。

 これをもし黙説法という高等技術だというならば、それは行き過ぎであって、ほとんど失敗と紙一重のところで、その方法は行使されているのだ。その結果ナスターシャの行動が特に不可解なものとして読者に印象づけられることになる。

 しかし、もし作者がナスターシャのロゴージンとムイシキンとの間を行ったり来たりする衝動を、不可解なものとして描きたかったのだとしたら、逆にこの大きな黙説は功を奏していることになる。ムイシキンはことあるごとにナスターシャのことを「あの人は狂っているのです」と言うが、ドストエフスキーはその黙説法によって、ナスターシャの狂気を描きだしているということになる。

 おそらくそれこそが正しい読み方なのだろう。『白痴』において最も不可解な人物はムイシキンでもロゴージンでもなく、ナスターシャその人なのだから。しかし、バランスの欠如を指摘しなければならないところはまだまだある。

 その一つは第3部の「イッポリートの告白」と呼ばれる部分である。ドストエフスキーの作品では彼の〝演説癖〟というものが、いくつかの場面でいかんなく発揮される。『悪霊』のあってはスタヴローギンの告白の場面、『カラマーゾフの兄弟』にあってはイワンによる「大審問官」朗読の場面。いずれも作品の進行を躊躇なく中断させ、プロットとは独立した別種の時間がそこでは流れることになる。

「イッポリートの告白」もまた、そうした場面の典型的な例に他ならないが、ただし他の作品において指摘できるような、作品全体のテーマとの緊密な結びつきを欠いている。スタヴローギンの告白は、『悪霊』全体の革命運動を担う青年たちを支配する、悪魔的な精神性のテーマと深く結びついているし、イワン・カラマーゾフの「大審問官」は『カラマーゾフの兄弟』を貫通する神と無神論、善と悪、〝肯定と否定〟のテーマを象徴する場面となっている。

 しかし、「イッポリートの告白」は恋愛小説としての『白痴』のテーマにふさわしいものとは到底思えないし、作品全体を支配しているムイシキンの純粋と無垢とは絶対的な祖語を来しているように思う。冒頭でムイシキンが語る、銃殺直前に恩赦があたえられる死刑囚の話がもたらす違和感と同質なものなのである。

 ヘンリー・ジェイムズのような〝形式主義者〟は、多分こうしたドストエフスキーの〝大演説〟を、決して好ましいものとは考えなかったであろう。それらが作品のテーマに深く結びついている場合でも、異様な突出部として受け取ったに違いないからである。「イッポリートの告白」のように、小説全体のテーマとかけ離れた〝演説〟であればなおのこと、それは作品の形式的破綻を示しているからである。

 そして「イッポリートの告白」はそれ自身のうちに大きな矛盾をかかえている。余命2週間の結核患者であるイッポリートが、若くして死ぬ運命にあることへの呪詛としてそれを読んだ場合には、それほどの矛盾は感じないかもしれないが、それは卑近な読みに過ぎないだろう。

 もっと高邁な思想の表白として読むならば、与えられた2週間を何ものかの規範によって生きることへの拒絶と、自らの死を自分自身で決することの宣言として読むこともできる。しかしそこには彼自身の言う「大事なのは、生命なのだ。生命のみ」といった、生命讃美とは決定的な矛盾がある。

 

 

 



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