玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(10)

2015年05月15日 | ゴシック論
 バークの視覚芸術に対する崇高の理論に影響を与えたのが、どの時代のどの画家であったのかは分からない。デジデリオではなくバークの同時代人であった銅版画家ピラネージ(1720-1778)であったかも知れない。ピラネージの作品もまた、デジデリオの作品と同様に、崇高の念を抱かせるものである。とくにその〈ローマの景観〉シリーズにおいて。


ピラネージ〈ローマの古代遺跡〉より〈古代のマルスの競技場〉

ピラネージはローマの廃墟を好んで描いたし、デジデリオもまた空想の廃墟を好んで描いた。ピラネージの描く廃墟は悠久の時間を感じさせるもので、その無限感もまた崇高の観念を呼び起こす原因となっているのである。
 デジデリオは必ずしも廃墟ばかりを描いたわけではなく、崩壊などしていない巨大建築物も描いているが、不思議なことにそれがいつでも崩壊の予兆を漂わせている。それがデジデリオの作品の大きな特徴である。
 ところで“廃墟”というテーマはゴシック・リヴァイヴァルを先導した、ホレース・ウォルポールとウィリアム・ベックフォードが財産を注ぎ込んで追求したものであったし、それがイギリスにおける“ピクチャレスク趣味”と言われるものにつながっていくのだが、バークの議論はそこまでを予想するものであっただろうか。
 多分そうではない。バークの美学は廃墟を人工的に作り上げて、それを眺めて楽しむと言ったような悪趣味を退けるであろう。それよりもバークは模倣芸術としてのピラネージやデジデリオの描いた廃墟の絵画をこよなく愛するであろう。
 バークの崇高の美学は破壊や崩壊といった“苦”や“恐怖”に起因する崇高を最もよく達成しているピラネージやデジデリオの作品に最もよく適合するのである。彼らの作品は描いている対象物が喚起する“崇高”と、模倣の完璧さに起因する“快”がもたらす“美”との両方を兼ね備えている作品なのである。
 繰り返すが、私は必ずしもピラネージやデジデリオの作品がバークの崇高の美学に影響を与えたということを言いたいのではない。ピラネージの作品がバークの美学に影響したということはあったかも知れないが、それよりも、あくまでもこの二人の視覚芸術が最もよくバークの美学に適合するということを言いたいのである。


デジデリオ〈建築的奇想〉

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