第1章ヴァルター・ベンヤミンの墓標――非宗教的啓示(その2)
マイケル・タウシグはベンヤミンが死の直前に書いた「歴史の概念について」というテクストに記された「敵が勝利を収める時には死者もまた無事ではいられない」という言葉を何度も引用する。テーマが「ベンヤミンの墓」である限りそれは当然のことである。
しかし、「歴史の概念について」というテクストは難解を極める。先の言葉は6番目の断章の中に含まれているが、最初の部分は以下のようなものである。
「過ぎ去った事柄を歴史的なものとして明確に言表するとは、それを〈実際にあった通りに〉認識することではなく、危機の瞬間にひらめくような想起を捉えることを謂う。」
「死者もまた無事ではいられない」という言葉は、この文章に先導されていて、理解の糸口を与えてくれる。そして「死者の危機」に続く文章は次のようになっている(続けて読む。なおこの訳は「ベンヤミン・コレクション」の浅井健三郎訳)。
「もし敵が勝利を収めるなら、その敵に対して死者たちでさえもが安全ではないであろう――この認識にどこまでも滲透されている、その歴史記述者にのみ、過ぎ去ったもののなかに希望の火花を掻き立てる能力が宿っている。しかも、敵は勝つことを止めてはいない。」
このテクストをいったいどう読めばいいのだろう。「過ぎ去った事柄を〈実際にあった通りに〉認識する」などということはあり得ないことであって、そのようなことが可能だと考える歴史記述者に「希望の火花を掻き立てる能力」はないと言いたいのだろうか。
さらにまた、「危機の瞬間にひらめくような想起」として過去を捉えるならば、敵の勝利に対して死者たちの安全を守ることができると言いたいのだろうか。そして敵とは、ベンヤミンにとっての当面の敵=ナチスだけを意味しているのではないであろう。そのことはこの文章に先立つ部分「メシアはたしかに解放者として来るのだが、それだけではない。彼はアンティキリストの超越者としてやって来るのだ」によって明らかだろう。
アンティキリストがニーチェ的な意味で言われているのかどうかさえ、私にはよく分からないが、「危機」とは当然ナチスに追われてスペイン国境の町にまで逃げてきたベンヤミン自身のそれを意味していると同時に、より普遍的な「危機」をも意味しているだろう。そうでなければ「歴史の概念について」というようなタイトルで書かれるはずがない。
ベンヤミンの死に学ぶということは、彼の死によって完結される物語を紡ぐことではない。そうではなくタウシグがこの章で行っているように「危機の瞬間にひらめくような想起を捉える」ことによって、死者の安全を、というか死者の生を保持することなのだ。
マイケル・タウシグのもう一つのキーワードは「非宗教的な啓示」というものである。これはベンヤミンが1929年に書いた「シュルレアリスム」というテクストに出てくる言葉であり、当時のフランスのシュルレアリストたちの運動の本質を捉えた言葉である(「ベンヤミン・コレクション」の久保哲司訳では「世俗的啓示」と訳されている)。この言葉の意味は次のようなベンヤミンの文章によって明らかになるだろう。
「さて、宗教的啓示の真の創造的克服は、麻薬によってなされるのでは絶対ない。克服は〈世俗的啓示〉において、すなわち唯物論的、人間学的な霊感においてなされるのである。」
〈世俗的啓示〉は宗教的啓示を克服し、超えていくものと考えられている。ベンヤミンの言語論にはここで名指しされている〈世俗的啓示〉に関連していると思われる〈啓示〉の概念が頻出する。啓示は深く言語に関連していて、ベンヤミンの思想の中核をなす概念の一つでもある。
ベンヤミンは「シュルレアリスム」において、シュルレアリストたちの言語芸術のなかに〈宗教的啓示〉を超えるものとしての〈世俗的啓示〉を見て取っているわけである。ベンヤミンはとりわけアンドレ・ブルトンの『ナジャ』の中にそれを顕著なものとして読み取っている。
ではマイケル・タウシグにとっての〈世俗的啓示〉とは何か?
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