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玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイルズ』(4)

2019年03月24日 | 読書ノート

 ソンタグは「沈黙のもうひとつの語り方」として、「声低く」のスタイルについても取り上げているが、このあり方がよく分からない。「それは伝統的なクラシシズムの主要な特徴の延長」と規定されているから、より古典的なスタイルを持った芸術家たちの発言に関わるものなのだろう。
 ジョン・ケイジとジャスパー・ジョーンズの名前が挙げられているから、想像のつく人には想像がつくかも知れない。しかし、結局ソンタグは「声高」も「声低く」も、スタイルこそ違えどちらも同じ過激なことを言っているのだとしているから、さほど気にすることはない。
 つまり「充満」と「空虚」の落差がこちらはそれほど大きくはないのだと理解しておこう。そのことよりも重要なのは、ソンタグがモダン・アートについて言っていることである。

「実際、沈黙がモダン・アートに対して重要な観念でありつづけるためには、それが相当な、ほとんど組織的なアイロニーをもって展開されることが必要だとさえ、いえるかもしれない。」

 このソンタグの言葉は、言語の超越性と汚染、つまりは意味の充満と空虚に晒されるモダン・アートが、それ自体を維持し、それを外側から支えるために「相当なアイロニー」を必要とするだろうということである。ソンタグは次のように書いてこの議論を補填する。

「ラディカルな宗教的神話が説く肯定的ニヒリズムの、抽象的・断片的模造品として、現代のシリアスな芸術はしだいしだいに意識のもっとも辛い屈曲に向かって動いてきた。考えられるのは、意識の試練の場としての芸術のまじめな使用法に対して、釣り合いをとるのに唯一の可能な手法はアイロニーだということだ。」

 この結論が何を言わんとしているかについて理解するためには、モダン・アートあるいは今日いう現代アートの潮流について考えてみればよい。シリアスな芸術家は芸術そのものの廃棄に向かっているように思われるかも知れないが、それもまた芸術再生のための一つの方法なのである。しかしその道は過酷なものであり、そうした過酷に耐えるために多くの芸術家は、その表現の中にアイロニーを紛れ込ませてきた。
 アイロニーがたとえば、笑いや韜晦、あるいは遊戯のようなものとして導入されてきたことは今日の現代アートの状況を見れば容易に理解できることではないか。沈黙に耐える、作品を媒体として作家とオーディエンスが、もろともに沈黙に耐えるということは不可能に近いのであって、芸術の廃棄を芸術の再生に結びつけるためには、そうしたアイロニーによるエネルギー補給がいかにも必要なのである。
 ソンタグの結論はしかし、そのようなアイロニーの可能性を認めつつも、それをどこまでも拡大していくことはできないというものだ。

「自己が前提としていることを絶えず切り崩してゆくという可能性が、やがては絶望ないしは息ができなくなるほどの笑いに終わることなく、未来においていつまでも続くとは考えにくい。」

 その通りだと思う。アイロニーは緊急待避の手段なのであって、歴史の本流にはなり得ないものだからだ。ソンタグの議論は半世紀の年月を経て、未だに有効であるどころか、今こそ顧みる必要のある議論ではないだろうか。
 私が付け加えておきたいのは、現代アートにおけるアイロニーの逆転現象についてである。多くの作品は「自らの前提を切り崩してゆく」ことに賭けられておらず、むしろ根拠を喪失したアイロニーの展開の方に賭けられているように思われるということだ。
 当然真のシリアスさは失われ、根拠なきアイロニーが覇権を握っている。だからそれらの作品は沈黙とは縁もゆかりもないものになり果ててしまい、「沈黙の美学」ならぬ「饒舌の美学」(美学にさえなっていないが)を体現してしまうことになる。そのような例を我々はたくさん知っているではないか。
(「沈黙の美学」の項おわり)

 


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