『夜のみだらな鳥』が含まれる水声社の「フィクションのエル・ドラード」シリーズの編者である寺尾隆吉が、この作品の解説を書いている。その中で寺尾はドノソのこの作品をガルシア=マルケスの『百年の孤独』とともに「魔術的リアリズムを代表する二作」と規定している。しかし、私にはこのドノソの『夜のみだらな鳥』が「魔術的リアリズム」を代表する作品とはとうてい思えないのである。
寺尾隆吉自身の著書『魔術的リアリズム――20世紀のラテンアメリカ小説』によれば、魔術的リアリズムの原型はキューバの作家アレホ・カルペンティエールの『この世の王国』に求められるという。そのことは私自身の読書体験からしても素直に頷ける事実である。
カルペンティエールの『この世の王国』には、マニフェストとしての序文が付いている。それは彼がこの小説の舞台となったハイチを訪れたときに、それまでパリで暮らしシュルレアリスムの影響下にあった自身に訪れた、認識の転換点について述べたものである。
「驚異的なものを捉えるには、何よりもまず信じることから始めなければならない」とし、それがないところには衰弱したシュルレアリスムしかあり得ないと、カルペンティエールは言う。配置には未だヴードゥー教も生きている。それを信じること、そうしなければ驚異的なものを作品化することはできない。そしてハイチだけでなく、ラテンアメリカ世界は驚異的なものに溢れているのだ。
『この世の王国』はハイチの黒人の視点に立って、ヨーロッパの白人に対する抵抗や反逆を描いた。それも超自然的現象がまるで史実であるかのように描いた。カルペンティエールはフランス人の父とロシア人の母のあいだに生まれた、れっきとした白人で、『この世の王国』での方法には様々な矛盾があり、すぐに行き詰まってしまうのだが、それはまた別の話である。
魔術的リアリズムの原型として『この世の王国』があるということは、それが西欧世界と対立するラテンアメリカ的価値観によっていること、そしてラテンアメリカ世界にあっては現実そのものが魔術的であること、さらにはそこに現実変革的な意志が存在するということを意味している。
いったいホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』のどこに、カルペンティエールの『この世の王国』と共通するものがあるというのだろう。故国チリの現実に嫌気がさして国を出て放浪したドノソには、ラテンアメリカ的価値観を至上とする考えもなかったし、『夜のみだらな鳥』で魔術的な現実世界を描いているわけでもない。ましてや政治的には無関心を貫いたドノソに、革命への志向などあり得るはずもなかった。ドノソは自作について次のように言っている。
「『夜のみだらな鳥』は迷宮とも分裂症とも言えるような小説で、そこでは現実と非現実、睡眠と覚醒、夢と幻覚、これまでの体験とこれからの体験など、様々な局面が混ざり絡まりあって、何が現実なのか決して明かされません。(……)私としてはただ、何度も手を加えて直したいくつかのオブセッションやテーマや記憶を小説化する可能性を模索しただけです。最も手に負えものにまで絶対的な現実性を与えることで、三五とも八〇とも言える数の現実を生み出す分裂症の世界を小説化したわけです。」
このドノソの言葉は『夜のみだらな鳥』発表直後のインンタビューに答えた内容で、寺尾隆吉の『魔術的リアリズム』殻のまた引きである。
確かにドノソの語っているとおりで、そこには分裂症的な要素がたくさんあるし、むしろ、ドノソ自身の分裂症的気質のただ中から生起してくるオブセッションに形を与えようとした作品と言うべきだろう。だからカルペンティエールの作品が持っているような、社会性もなければ政治性もない。
魔術的リアリズムの原型が『この世の王国』にあり、その後メキシコのフアン・ルルフォやコロンビアのガルシア=マルケスに受け継がれていくのだとしたら、さらに『夜のみだらな鳥』の方法に相応しくないものと思わざるを得ない。
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