ピラネージについては岡田哲史が書いている。岡田はピラネージの代表作である「牢獄」シリーズにはまったく触れておらず、「ローマの景観」など古代ローマの遺跡を描いた作品にしか言及していない。まるで、ピラネージの偉大さは「牢獄」によってではなく、「ローマの景観」によって証されると言わんばかりだが、実は私もそう思っている。
岡田によれば、ピラネージは20歳で故郷のヴェネツィアを出てローマにやってくるが、失われゆく古代ローマの遺跡に魅了され、それを紙の上に再現しようという壮大な意欲を持つに至る。岡田は次のように書いている。
「そこでピラネージは、古代ローマ建築の遺跡から『語りかける廃墟の精神』を汲み取り、その創造の精神で自らを鼓舞し、古代建築に匹敵する壮麗な現代建築を紙の上に創作しようと意欲を燃やす」
ピラネージは生涯に1000枚を超える作品を残したが、そのうち「ローマの景観」だけで137枚にも及び、『ローマの古代遺跡』『古代ローマの壮麗と建築』『古代ローマのカンポ・マルツィオ』という3冊の考古学書に描かれた作品を加えれば、ローマの遺跡を描いた作品は膨大な数に上る。ピラネージはローマの廃墟を描くことに生涯を費やしたのだと言ってもよい。
古代ローマの廃墟を描いたいくつかの作品を見ていると、眩暈に襲われそうになることがある。「牢獄」シリーズについてはそういうことはない。たとえば『ローマの古代遺跡』の一枚「カエキリア・メテッラの墓の背面の景観」は、ピラネージの誇張された遠近法による壮麗(エドマンド・バークにならえば崇高)の実現の典型的な一例である。
この作品が遠近法を現実よりも加速させていることは明らかで、しかも消失点を画面左横に設定している。そのため見る私はまるで左横に水平に“落ちていく”ような錯覚にとらわれてしまう。通常は真下にあるべき奈落の底が左横にあって、そこに向かって落ちていくような感覚に眩暈を覚えてしまうのである。
「古代マルスの競技場」では消失点は左斜め上に設定されているが、同じように遠近法が加速されているため、私は消失点に向かって落ちていくような錯覚に襲われてしまう。ピラネージの作品は高所恐怖症の私にとって、この上なく恐ろしい作品でもあるのだ。
〈カエキリア・メテッラの墓の背面の景観〉
岡田によれば、ピラネージは20歳で故郷のヴェネツィアを出てローマにやってくるが、失われゆく古代ローマの遺跡に魅了され、それを紙の上に再現しようという壮大な意欲を持つに至る。岡田は次のように書いている。
「そこでピラネージは、古代ローマ建築の遺跡から『語りかける廃墟の精神』を汲み取り、その創造の精神で自らを鼓舞し、古代建築に匹敵する壮麗な現代建築を紙の上に創作しようと意欲を燃やす」
ピラネージは生涯に1000枚を超える作品を残したが、そのうち「ローマの景観」だけで137枚にも及び、『ローマの古代遺跡』『古代ローマの壮麗と建築』『古代ローマのカンポ・マルツィオ』という3冊の考古学書に描かれた作品を加えれば、ローマの遺跡を描いた作品は膨大な数に上る。ピラネージはローマの廃墟を描くことに生涯を費やしたのだと言ってもよい。
古代ローマの廃墟を描いたいくつかの作品を見ていると、眩暈に襲われそうになることがある。「牢獄」シリーズについてはそういうことはない。たとえば『ローマの古代遺跡』の一枚「カエキリア・メテッラの墓の背面の景観」は、ピラネージの誇張された遠近法による壮麗(エドマンド・バークにならえば崇高)の実現の典型的な一例である。
この作品が遠近法を現実よりも加速させていることは明らかで、しかも消失点を画面左横に設定している。そのため見る私はまるで左横に水平に“落ちていく”ような錯覚にとらわれてしまう。通常は真下にあるべき奈落の底が左横にあって、そこに向かって落ちていくような感覚に眩暈を覚えてしまうのである。
「古代マルスの競技場」では消失点は左斜め上に設定されているが、同じように遠近法が加速されているため、私は消失点に向かって落ちていくような錯覚に襲われてしまう。ピラネージの作品は高所恐怖症の私にとって、この上なく恐ろしい作品でもあるのだ。
〈カエキリア・メテッラの墓の背面の景観〉
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