玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(1)

2020年02月04日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジェイムズの相当にマイナーな作品『信頼』Confidenceが、翻訳されていることを知ったのは最近のことで、あまり大きな期待もせずに買って読んでみることにした。なにせ、ジェイムズが自選の「ニューヨーク版全集」に入れなかった初期の作品であるから、大傑作でなどあるはずもないからである。

 それにしてもずっとヘンリー・ジェイムズを翻訳で読んできて、意外にもこの作家の作品が思ったより多く、日本語に翻訳されていることに気付く。もっともよく読まれているのが『ねじの回転』で、それ以外は今日日本の読者にはほとんど読まれていないのではないかと思っていたが、必ずしもそうでもないかも知れない。

 2016年に出た、ヘンリー・ジェイムズ歿後百年記念論集『ヘンリー・ジェイムズ、いま』の書誌によれば、三巻ある自伝も翻訳されているし、主要な長編のほとんどが紹介され、書簡集まで最近翻訳されている。文庫本になっている作品も後期三部作以外にも、短編を含めるとかなりたくさんある。

 だから私が読んでいない作品もまだ相当数あって、この『信頼』もその一つだったわけである。ここまで来たら死ぬまでに、翻訳されているものは全部読んでやろうと思っているので、『信頼』もまた読まねばならない作品なのであった。

『信頼』を読み始めて最初に思ったことは、この作家が難解で読みにくいということがよく言われるが、どうしてなのだろうということであった。私は『信頼』という小説の世界にすんなりと入っていけたし、読みにくいどころかこんなに読みやすい作家は私にとって他にいないということを、またしても確認することになった。

 まったく故郷に帰ってきたような思いを禁じ得ない。今年になってエミリー・ブロンテの『嵐が丘』を読み直し(ゴシック論の一環として書くつもりだったが、この小説のどこが偉大なのか私には理解できなかった)、フローベールとバルザックを読んだが、彼らの小説世界と比べても私にはヘンリー・ジェイムズの世界の方がずっと馴染みやすい。彼の老獪で底意地の悪い文章にすっかり毒されてしまったためなのだろう。

 とにかくヘンリー・ジェイムズをたくさん読んできたせいなのだろうが、私には彼の人物紹介的な導入部分がいつも明快で、分かりやすいとさえ思われる。『信頼』ではまず三人の人物が紹介される。主人公のバーナード・ロングヴィルと、副主人公のアンジェラ・ヴィヴィアン、その母親のヴィヴィアン夫人である。舞台はイタリアはシエナのカンポ広場。

 ロングヴィルが広場をスケッチしていると、魅力的な若い娘が教会の前に佇んでいるのを発見、ぜひ彼女をモデルにスケッチを完成させたいと、その娘にしばらくそこに立っていてくれと頼む場面である。しかしこの娘は一癖も二癖もある女で、すなおに要求に応えず、スケッチが完成した後でもロングヴィルに難癖を付ける。

 母のヴィヴィアン夫人はそんな娘を「変な娘だとお思いでしょう」と言って、ロングヴィルに対する気遣いを見せるが、この段階でこの娘の一風変わった性格が、今後の展開の中で重要な意味をもつだろうということが予想される。

 こうした思わせぶりな人物紹介としての導入部は、いかにもヘンリー・ジェイムズらしい。19世紀的リアリズムならば、この娘のおかしな言動を、彼女の内部に立ち入って描写していって、謎めいた部分を残すことはないだろう。しかし、ジェイムズはそうはしない。

『信頼』はヘンリー・ジェイムズが37歳の時の作品で、『デイジー・ミラー』の直後、『ワシントン・スクエア』と『ある貴婦人の肖像』の直前に書かれている。まだ彼独自の視点の方法は確立されていない時期であるが、この作品は主人公バーナード・ロングヴィルの視点からのみ書かれている。時々作者自身が顔を出すことはあっても、小説はロングヴィルが体験したこと、観察したこと、言ったことと言われたことのみで成り立っている。

 ひとりの人間の主観にとって、他の人物というものはいつでも不可解な部分を持たざるを得ない。一つの主観は自らの内部に入り込むことはできても、他者の内部に入り込むことはできないし、アンジェラ・ヴィヴィアンのように行きずりのちょっとした出会いでしかない場合には、そうすることはより難しい。

だから導入部では放置されているアンジェラの奇矯な言動は、謎として小説全体に伏流していって、最後にその意味が明らかになる。ジェイムズはそのようにこの小説を作っているし、そうした意味でこの導入部は完璧であって、強い印象を残すのである。



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