玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(1)

2024年01月19日 | ラテン・アメリカ文学

「ラテンアメリカ文学不滅の金字塔」というキャッチコピーに乗せられて、キューバの作家、ホセ・レサマ=リマの『パラディーソ』を購入し、読んでみることにした。レサマ=リマがいわゆる「ブームの時代」より前の世代の作家であることも知らずに読んだのだが、読み進むにつれて、これまで読んできたラテンアメリカ小説の、どの作品とも似たところのない作品だということを了解した。
 私にとってのラテンアメリカ小説の代表作を挙げるとすれば、チリの作家、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』であり、コロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』であり、メキシコのカルロス・フエンテスのゴシック長篇『テラ・ノストラ』であり、ペルーのマリオ・バルガス=リョサの歴史小説『世界最終戦争』であり、キューバのアレホ・カルペンティエールの『光の世紀』であり、といったところになるだろう。
 どの作品も長篇であり、得難い読書体験を与えてくれるユニークな作品であるが、『パラディーソ』の独自性には及ばない。『パラディーソ』には『夜のみだらな鳥』のような幻想文学的な要素は少ないし、『テラ・ノストラ』や『世界最終戦争』のような歴史小説的な要素もない。架空の村の年代記である『百年の孤独』のような、一族の歴史を語って南米の普遍性に迫るような小説とも明らかに違う。同じキューバの後輩作家、カルペンティエールの『光の世紀』のような端正な語り口などどこにもない。
 ではどこに『パラディーソ』のユニークさがあるかと言えば、それはレサマ=リマが根っからの詩人であること、生涯に残した小説作品がこれ一作しかないことに拠っているように思う。この作品はほとんど小説とは思えないような文章で書かれており、散文詩的な作品とさえいえるのであって、ラテンアメリカ文学を代表する多くの傑作に、このような作品はないと言ってもよい。読者はこの小説の第2章で、早くも次のような文章に突き当たるのである。

「ルーバがアルコールに浸した紙束を激情をこめて振るうので、アルコ?ル精気の微粒子は震える小鼻に打ちつけてかすかな刺激をあたえた。彼女のひとつひとつの動きに従って鏡の縁の動植物の配置が変化するように見え、まるでタペストリーに描かれた楽園の光景を激しく揺さぶる雹まじりの嵐のようだった。その腕は船客を桟橋に運ぶランチのように鏡の水面を横断していき、握りしめた紙の棍棒は、明暗法によるマホガニーの反映の間で草を食んでいるカモシカの尾にぶつかった。その勢いでルーバは腰をたわませて腕をアーチ状に掲げたまま後退したので、危険なほどベンチの端に接近するとともに、彫り物細工の枝葉の繁みの間から覗くような機動的な視角を得ることになったが、カモシカの尻尾を放したのでカモシカは岩の間を跳ねたり蹄でなでるようにスイレンに触れたりしながら姿を消した。彼女は体勢を持ち直してふたたび一歩前に進み、再度ナポリの朝の踊りのようなアーチを出現させ、ポケット版のヘレスポント海峡をあらためて横断しようとして、アルコールの浸透によって預言者のマントと化した紙束で海峡を覆いつぶしたが、それから額縁の岩からも手を放したので小川に突発的な大波が起きて、カモシカはもう二度と姿をあらわさなくなった。」

 この一節は使用人のルーバとトランキロが屋敷で二人きりとなり、一緒に掃除をする場面であり、ルーバ(女)がトランキロ(男)にすり寄って来るので、トランキロがシャンデリアの上の方へと逃げていく喜劇的な場面に過ぎないのだが、どこまでが描写でどこまでが直喩なのか、あるいはどこまでが隠喩でどこまでが描写なのか判然としないために、そこで何が起きているのか読者に理解する余裕が与えられないという性質を持っている。
 この一節を読んで、まだA5判9ポ2段組600頁の大冊の5%しか進行していないのに、私は「この小説は読み通すことができる」と確信するに至ったのだった。何が書かれているかよりも、どう書かれているかの方に比重がかかり、そこに文章を読んだ時の悦楽を見出すことができると判断したからである。
 著者が断続的に30年以上の歳月を費やして完成させ、そして訳者の旦敬介がこれも断続的に20年かけて翻訳した『パラディーソ』を超高速で読んでいくことができた。旦はこの小説にはゆっくりとした時間が流れていると言っているが、濃密でスピード感あふれる表現に溢れているのも事実であって、読者がそれにつられてじっくりとではなく、早いスピードで読んでいくのも流儀として認めてもらってもいいだろう。

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2022、国書刊行会)旦敬介訳

 



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