早くホセ・ドノソあるいはラテンアメリカにおけるゴシックというテーマに移行したいのだが、ヘンリー・ジェイムズが邪魔をする。このところ書いてきた「ゴシック論」もジェイムズに偏りすぎている。必ずしも彼の作品が典型的なゴシック小説というわけでもないのに、困ったことだ。しかし『鳩の翼』や『聖なる泉』を読んで以来、ジェイムズの他の長編を読みたくて仕方ないのだ。
実は長期入院中の友人から委託されている蔵書があり、その中にかつてブームだった「世界文学全集」のたぐいがたくさんある。その中からヘンリー・ジェイムズの巻を抜き出して、自宅に持ってきてある。
「世界文学全集」のブームというのは1960年頃から15年間くらい続いたと思うが、当時の「世界文学全集」には必ずヘンリー・ジェイムズの長編作品が含まれていた。しかもジェイムズは生涯に21本もの長編を書いたから、各出版社によってそれぞれ違う作品が選択されていて重複がない。
発行年順に列挙してみよう。
・『ボストンの人々』(1966、中央公論社「世界の文学」)谷口陸男訳
・『アメリカ人』(1968、荒地出版社「現代アメリカ文学選集」)高野フミ訳
・『使者たち』(1968、講談社「世界文学全集」)青木次生訳
・『ある婦人の肖像』(1969、筑摩書房「世界文学全集」)斎藤光訳
・『鳩の翼』(1974、講談社「世界文学全集」)青木次生訳
・『カサマシマ公爵夫人』(1981、集英社「世界文学全集」)大津栄一郎訳
上記の他にも『ロデリック・ハドソン』が筑摩書房の「世界文学体系」に(1963)、『聖なる泉』が国書刊行会の「ゴシック叢書」に(1979)に入っている。
これだけ多くの長編作品が多様な「世界文学全集」に収められている例は他の作家では考えられないことではないか。ドストエフスキーにしたところで、『死の家の記録』『罪と罰』『未成年』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』の6本くらいであり、ヘンリー・ジェイムズは収載本数ではドストエフスキーをすら上回るのである。
もともと長編の本数が多かったせいもあるが、「世界文学全集」のたぐいに必ず入っていたということは、それだけ専門家の評価も高く、読まれる可能性も高かったということなのだろう。しかしその後は「世界文学全集」というようなものがなくなってしまったために、ジェイムズの長編は新たには『金色の盃』くらいしか訳されていない(1989、あぽろん社、青木次生訳。その後講談社文芸文庫)。
なぜ今日、ヘンリー・ジェイムズが『ねじの回転』など少数の例外を除いて、あまり読まれなくなったのかという問題は考えてみるに値するテーマである。
まずどの長編もやたら長い。長いことに関してはドストエフスキーも負けてはいない。しかし、ドストエフスキーの小説には息をもつかさぬドラマがあって、そのストーリー展開を楽しむ圧倒的な喜びがあるが、ジェイムズの小説にはそれがない。
たいしたドラマが起きるわけでもなく、ストーリーも面白いとは言えない。会話文が極めて少なく分析的記述が圧倒的に多いので、注意深く読んでいかないと何がなんだか分からなくなる。だから多くの読者には退屈きわまりないものと映るのだろう。
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